国語科教員(@coda_1984)氏の「人間の本質と語ること」の「認識」の「甘さ」

はじめに

いつものぼくが、〈ホワイトしばしん〉だとします。

すると、今回の記事は

〈ブラックしばしん〉ばりばりの記事

です。

したがって、〈ホワイト〉なものが読みたい方は、

ぜったいにこの先を読まないでください。

言いたいこと

  1. 古田氏は対話を重視せよ、という旨のことを言う。しかしぼくとの対話は行わない。
  2. 古田氏は自分の論への覚悟が足りず、さまざまな方面に目配せし、尻込みしているために、ブログ記事で言いたいことが不明瞭であり、応答できていない。
  3. 古田氏は、具体的な授業の分析・検討を通して、自身の立場の有用性を主張すべきである。

なお、本論は「当該ブログの冒頭」から始まります。

(ぼくに見えていた範囲の)経緯

きっかけは、国語科教員(@coda_1984)こと古田尚行氏の、次のツイートだった。

このツイートがRTされてきたのをうけ、次のように引用RTで反応した。

その上で、次のように連投。

このような流れを知ってか知らずか、古田氏が次のようなツイートをする。

これに対し、すべて引用RTでぼくが反応。

その後、ぼくの「だからこれって「人間の本質」なんですか?~」というツイートを見て、いろいろな方々からリプライが送られてくる。(この点については、素直に感謝しています。いろいろ考えることができました)

しかし、その後、古田氏から反応はなかった。

翌朝、ぼくは前夜の違和感を言語化しようと次のようにまとめている。

その後なんやかんや(他の方とのやりとりが)あって、改めてぼくの考えを言語化しようと試み、次のように総括した。少し長いのでまとめて書く。

  • うん、読み返してなんとなくわかったのだけど、ぼくはそもそも、「人の生の本質的な議論」という語に対して違和感を覚えたのであって、最初は人間の本質、みたいな話をしていたわけではなかった。国語科教員さんの、「語るってことは人間の本質としてみなしてもいいんじゃないですかね」に引っ張られた。
  • 「人の生の本質的な議論」というのが、「人の生の本質」のような「議論」のことだと、この時点で認識を改めていればよかったのかもしれないな。どちらかというと「本質的な議論」というのに引っかかってるんだわ。
  • 〈人の生の本質〉的な議論か、〈人の生〉の本質的な議論か。ぼくは後者に読んでしまって、だから最初の引用rtでは、「〈本質的〉」と言ったつもりだったんだよなあ。と、なんとなくちょっとずつ違和感の正体がわかってきた気がする。
  • 「人の生に関わる」、か。でもそうなるとやっぱり違和感だよなあ。もうなんか、〈本質的な〉議論というのが何を指すのかがぜんぜんわからなくなってきた。やっぱり議論が〈本質的〉なんじゃないの?これ。
  • うーん。まとまらない。人の生に関わる議論のなかでも、本質的な議論、という話? だとしたら、議論には本質的な議論と、そうではない議論があり、「あくてぃぶらーにんぐ」はその議論が「本質的」ではない議論であるから、批判される、ということか? たぶん、ここに違和感を感じたんだよなあ。
  • そんでそれは「言葉や発話」に関してではないから、本質的な議論とは言えない、みたいな感じに読めたということかな。でもそもそも「人の生に関わる」議論をしなければ、「本質的な」議論にはならない、という点に違和感があるんだわ。
  • そういう論点がぼくのなかでスライドしてしまっていたことは、反省しないといけないですね。
    みなさん、申し訳ありませんでした。

ぼくのなかで気になっていた、

  1. 「本質的」という語に関する違和感
  2. 「本質」のような大きな言葉で何かを批判することへの違和感
  3. ある先生がある信念で授業づくりをしていることを、一般化することへの違和感

という3つのことが、ごちゃ混ぜになってしまっていましたね。

その後、誰かのRTを見て、古田氏が応答していることに気づく(本人からのリプライ等はなし。ちなみに古田氏もぼくも、どちらも相手をフォローしてはいない)。

さらにその後、別の議論を終えて、古田氏が次のようにツイート。

このツイートに対して、「おいおい俺にはぜんぜん応答してねーじゃねえか」と思ってこの記事を書くに至る。

当該ブログの冒頭

昨晩、語ることや言語が人間の本質だとつぶやいたことに対して、なぜそれが人間の本質だといえるのかと質問を受けました。短文ではたぶん伝わりづらいところもあると思うので、ここに書いておきたいと思います。

古田氏のブログ記事は、上の文章ではじまる。

ただ、実際には「語ることや言語が人間の本質だ」と、氏はつぶやいていない。

氏のツイートは以下の通り。

かろうじて、次のようなツイートがあったくらいだ。

ぼくが不十分だった点

ぼくがもともと問題にしていたのは、

だから実際には、ぼくは「人間の本質」のような大きな問いを立てる気はなかったし、立てる意味もなかった。立てるべきではなかった。しかし、ぼくは自分の論点を制御できておらず、上記のツイートに素朴に反応してしまった。この点については深く反省している。

このあまりに素朴な反応に対して、かなりの人が「おいおい」と思ったのは理解できる。これは完全にぼくの落ち度であった。言語運用の能力が足りていなかった。精進したい。

古田氏は「対話」を成立させる気があるか

だが、ぼくがそもそも問題提起をしたツイートは、

であり、このツイートを氏はRTしていない(これ以外の引用RTについては、RTをしている)。

このツイートに対して「語るってことは人間の本質とみなしてもいいんじゃないですかね」と反応したのだと考えると、そのすぐ後に、上記のツイートはRTすることなく、

をRTするのは、氏の言う「対話」を成立させ得る態度なのか。

また、「短文ではたぶん伝わりづらいところもあると思うので、ここに書いておきたい」と言いつつも、このブログ記事をぼくに知らせるようなリプライは依然としてない。ぼくがこのブログの記事を知ったのは、ほかの人のRTを見てのことである。

氏は別の場所で、

と述べているけれども、ぼくの「声」に対して応答しているとは思えない

氏は、ブログ記事で、ぼくの引用RTをまず引用した上で、論を進めるべきであった。そうでないから、ぼくが罠にはまった部分だけを取り上げて、「語ることや言語が人間の本質だとつぶやいたことに対して、なぜそれが人間の本質だといえるのかと質問を受けました」と書いてしまう。

これは「対話」か。

「本質」に振り回されたぼく

ぼく自身が、「本質」という語のイメージをあまりにも偏ったものとして持っていたことは否定できない。

ぼくは「本質」を、「本性」のようなものだと考えていて、例えば次のような垣内玲氏の説明する本質」の定義を理解できていなかったことを認める

つまりたくさんあるうちの「ひとつ」の「本質」だ、と言うのであればわかる。しかし、だとすれば、それがある「ひとつ」の「本質」であることを踏まえて、(すなわち、ある「ひとつ」の「本質」でしかないにも関わらず、)その「本質」に触れない実践には「違和感」があると言ってしまうのは、やはりぼくには「違和感」がある

確かにこれは間違っていない。

しかし、だとすれば、その「本質」をもって、ほかの「本質」に触れている(かもしれない)実践を批判することに、意味はない。「あくてぃぶらーにんぐ」の実践が、「語ることは人間の本質」以外の「本質」に触れている可能性は、常にあるからだ。もしも意味があるとすれば、その「本質」に触れていない実践の具体を検討することによって、その実践に何が欠落しており、そしてまた、なぜその欠落がクリティカルなものであるのか、ということを説明する以外にない。具体的な分析なく、「本質(のひとつ)」のようなもので、何かを批判することに建設的な意義はない。

また、

と垣内氏はつづけ、「本質(のひとつ)」によって、ほかの実践を批判する根拠としているように見える。

国語教育について議論するときに「語ることは人間の本質である」というテーゼを前提に据えるって非常に重要なことだ」から、その「本質(のひとつ)」に触れていない実践は批判されるべきだ

というふうに読める。しかしそれは本当か。

ぼくは次のような点を確かに認めている。

しかし、「国語教育について議論するときに「語ることは人間の本質である」というテーゼを前提に据えるって非常に重要なことだ」という考えについては何も述べていない

そもそも「国語教育を議論する上での「ひとつの」指針になり得る」ことから、「国語教育について議論するときに「語ることは人間の本質である」というテーゼを前提に据えるって非常に重要なことだ」という主張を導き出すことは当然のことではない。

例えば、家から学校まで向かうとする。学校に向かう道は複数ある。そのひとつに、郵便局を目印として、向かうルートがあるとする。このとき、郵便局を目印とするルートを使うことは、確かに道筋の「ひとつ」である。また、郵便局を目印とすることは、学校に向かうための「ひとつ」の指針にはなり得る。だが、学校に向かうために、郵便局を目印とすることが、必ずしも重要であるかはわからない。別の建物を目印にすることだってできるし、その道筋が重要であるかもわからない。

同様に、ある考えが「「ひとつの」指針になり得る」ことは、その指針が「非常に重要なこと」であることを自動的に導き出さない。これは単に「「ひとつの」指針になり得る」その考えを、〈私〉は「非常に重要なことだ」と思う、という表明でしかない。少なくとも「国語教育について議論する」といった大きな主語で即座に一般化できるようなものではない。それこそ「ひとつの」考えに過ぎない。

ぼくが疑問に思っていたことのひとつは、「ひとつの」考えでしかない前提を踏まえなかったときに、その授業がその考えに則っていないからという理由で批判されうるか、ということである。この疑問は維持されている。

説明すべきは、「語ることが人間の本質(のひとつ)」であるということではなく、なぜその「本質(のひとつ)」が国語教育を議論する上で「非常に重要なこと」なのかであるはずだ。

しかしおそらく、古田氏のブログにはその答えが書いてあるはずだ(しかし実は書いていないのだが)。もう少し読み進めることにしよう。

「本質」という語に対する曖昧な態度

冒頭に引用した部分につづけて、古田氏は次のように言う。

「本質」という言葉は誤解の生じる言葉だとは思いました。基本的には突き詰めると本質なるものはたいてい「ない」と結論づけられることが多い。人間でも何でもいいですが、それにはいくつかの条件はあってそれらから規定することはできるでしょうし、これまでもなされてきました。それが共通理解として多くの人に共有されると、「たしかにそうかも」と思うようになるのでしょう。それでも、「本質」だと言い切れるかどうかが不明のことが多い。

この部分は、要するに「本質」という言葉は適切ではない、ということを説明しているように見える。だが、次の段落を見ると、

「人間は語る存在だ」と言ってもよかったかもしれません。しかし、この言い方にしてもたぶん私の中では「語ることが人間の本質だ」ということと同じことになるので、「本質」という言葉をこれまで使ってきましたし、使いました。一方で、様々な事情によって語ることができない人々も一定数いるわけで、この言い方を前提とすると人間の条件としては当てはまらないことになり、ここには注意は必要だろうと思います。

」は「本質」という言葉を使うことには問題ない、という考えを提示する。だがそれがなぜなのかは全く言及されない。その上でまた、「本質」という言葉を使うことには「注意は必要だ」とも言う。

古田氏は「本質」という言葉を使うべきだ、と考えているのか。それとも使うべきではない、と考えているのか。まったく明確ではない。このような曖昧な態度は、当該ブログ記事全体を通じて一貫している。

ブログ前半の内容を検討する

語るということは、日常的な行為です。私が誰かに語る、誰かが私に語る、私が私に語る。テキストも書き手が書き、語り手が語ります。この時、「誰に?」というのは想定された読者や聞き手ということもあるでしょうし、具体的に読む私たちのような読者がその語りを自分に向けられたものだと考えることもできるでしょう。

この部分は、語るということは日常的な行為である、と説明しているだけである。次に進む。

国語教育の世界では、こういう語ることの側面に①何を語るか、②いかに語るか、の二側面が多いように思います。

このあと説明されるのは、要するに〈物語〉という語には、ストーリー(①にあたるもの)とナラティブ(②にあたるもの)がある、という、かなり一般的な話に過ぎないので割愛する(詳しくは当該ブログを参照してください)

この一般的な説明の後、古田氏の考えが説明されていくので、この後が肝心だ。

古田氏の「関心」の所在と「認識」の説明不十分

私としては①②に加えて、③なぜ語るのかに関心があります。そもそも人が言葉を発することの意味、語る行為の意味、このことを考えてしまいます。これはテキスト中の登場人物や語り手(「少年の日の思い出」の「私」がなぜ「客」の話を語ったのか、「ごんぎつね」の語り手がなぜごんの物語を語ったのか、「こころ」の「先生」はなぜ「私」に遺書を書いたか)ということです。評論文ですと、ある危機意識、問題に感じたことを誰かに伝えたいということもあるでしょう。

氏は「私としては」「なぜ語るのか」に関心があると言う。「これはテキスト中の登場人物や語り手(…)ということです」のような、よくわからない文もあるが、この部分では氏の考えを表明し、次の段落で考えを展開していく、かのように見える。

しかしこの後の論述は、はっきり言って文がわかりにくく、言っていることが判然としないので、ぼくなりの解釈をしながら説明していくことになる。もちろん、なにがわかりにくいのかも、その都度言及していく。誤読があればご指摘いただきたい

私はこういうテキストを読み取り、テキストの書き手や語り手がそもそもなぜ語るのか、語ろうとするのか、ということから「人は他者に語らざるをえない存在なのだ」という認識で授業を構成しています。

こういうテキスト」がどのようなテキストなのかわからないが、おそらく「「少年の日の思い出」の「私」がなぜ「客」の話を語ったのか、「ごんぎつね」の語り手がなぜごんの物語を語ったのか、「こころ」の「先生」はなぜ「私」に遺書を書いたか」のような問いを喚起するテキスト、ということだろう。

このような「テキストを読み取り」、問いを受け取った氏は、「「人は他者に語らざるをえない存在なのだ」という認識」をもったと言う。

なるほど、とは思うが、しかしなぜその認識に至ったのか、なぜ「語らざるをえない」のような表現が適切であるのか、については全く説明されない。

そのうえで、次のような文が続く。

このことは、テキストの言語行為と私たちの日常の言語行為がクロスする瞬間、接点をもつ瞬間、「ああ、こういうのって自分たちにもあるよね」とか「ああ、こういうのがあったんだ」という瞬間を授業の中で生み出していきたいと思っているからです。

文自体が「このことは~からです」という構造になっており、ねじれていてわかりにくい。また、冒頭の「このこと」の指示内容が極めてわかりにくい。「「人は他者に語らざるをえない存在なのだ」という認識」をもったこと、か。だとしたら、この文は「このような認識をもったのは、~からです」と改めるべきである

しかしそうすると、直前の「こういうテキストを読み取り、テキストの書き手や語り手がそもそもなぜ語るのか、語ろうとするのか、ということから」そのような認識をもった、という文と衝突する。けっきょく「「人は他者に語らざるをえない存在なのだ」という認識」をもったのはなぜなのかが、やはりまったくわからないままある。

果たして「テキストを読み取り」、「語り手がそもそもなぜ語るのか、語ろうとするのか、ということから」上記のような認識をするに至ったのか、「テキストの言語行為と私たちの日常の言語行為がクロスする(…)瞬間を授業の中で生み出していきたいと思っているから」上記のような認識をするに至ったのか、どちらなのか。またはその両方なのか。不明なままである。

次の文、

ここではかなり書き手や語り手を実体化しています。

で、またも指示語が出てきているが、ここ」がどこなのかわからない。また、「かなり書き手や語り手を実体化」することが、上記の「認識」をもつこととどのような関係があるのか明示されない

語ることは必然的に他者を要請していくものであるし、この世界は大勢の他者とともにある以上、これは人の生に関わる問題だとも思っています。語ることから始まる、といってもいいかもしれません。そして私はここを出版(ママ)点としています。

先の認識の問題は棚上げされたまま、叙述は進む。しかしこれは〈叙述〉と言えるか。

叙述

物事の事情や考えなどを順を追って述べること。また、その述べたもの。(精選版日本国語大辞典)

どのような「順を追」えば、このような大きな話が出てきたのか。「語ることは(…)人の生に関わる問題だとも思っています」と言うが、他にはどんな「問題だと」思っているのか。何が「語ることから始まる」のか。「人の生」が、か。やはりわからない。

しかしそのような説明は一切なされないまま、これまでの議論から、古田氏は「語ることやその言語は人間の本質だ、と書きました」と言う。

今までの話は答えになっているのか

引用する。

「語ることやその言語は人間の本質だ」という認識がなぜ必要なのかが十分に説明されない

だいたいこのような考えで、(①~③はスッキリと分けられるものではないと思います)私は語ることやその言語は人間の本質だ、と書きました。ここではある種の信念や信仰に近いものというか、信念や信仰だと考えてもいいと思います。もちろんすべてがこの「本質」で説明ができるわけではありません。少なくとも、こういう考えや立場で授業をしていく方が「何を」語ったかだけでは終わらないことの方が多い、というのが現実的な問題だろうと考えています。

」、「」、「」とよく言う。

しかし「」というのは、「同類のものが他にあることを前提として包括的に主題を提示する。従って多くの場合、類例が暗示されたり、同類暗示のもとに一例が提示されたりする」(精選版日本国語大辞典)助詞である

信念や信仰だと考えていい」とは、他に何と考えてもよいことを暗示しているのか。このような曖昧な文が多すぎる

少なくとも、こういう考えや立場で授業をしていく方が「何を」語ったかだけでは終わらないことの方が多い、というのが現実的な問題だろうと考えています」についてもやはりわからない。「こういう考えや立場」というのは、「語ることやその言語は人間の本質だ」という「考えや立場」のことであるだろう。このような「考えや立場で授業をしていく方が「何を」語ったかだけでは終わらないことの方が多い」というのが、なぜ「現実的な問題」と言えるのか。この問いに答えることが、おそらく垣内氏の「(ひとつの)指針」である「こういう考えや立場」が「非常に重要」であることを説明するはずだ。しかしそのことにはぜんぜん触れられない

そして実際にぼくは、(議論をスライドされたことに気づかずに反応してしまったという失敗は認めたうえで言うならば)最初からなぜそのような考えが、なぜ〈本質的〉と言えるのか、なぜ「本質的な議論」と言えるのかを問うていたのだ。

古田氏の立場がもたらすメリットの説明が不足している

しいていえば、古田氏は「このような考えや立場」がもたらすメリットを、次のように説明してはいる。

また、これは書き手というか表現をする人の存在を無視することを避けることができるのではないかとも思っています。「人は何かを語らざるをえない存在」、「人の本質は語ること」と設定しておけば、そこには必ず語り手がいて人として排除されない形で読者と対話する場を設定できるのではないか、という考えです。

やはりわかりにくい文であるが、それは措く。なぜ「「人は何かを語らざるをえない存在」、「人の本質は語ること」と設定しておけば、そこには必ず語り手がいて人として排除されない形で読者と対話する場を設定できる」と言えるのか。これは自明なことか。「~設定しておけば、~設定できるのではないか」という文の歪さは措くとしても、「人は何かを語らざるをえない存在」、「人の本質は語ること」と設定しておけば」、自動的に「語り手」が「人として排除されない形で読者と対話する場」は生まれるのか。

「対話」と書きましたが、これは単なる会話ではなくて、その人を認め、その人もまた認められうる、しかし必ずしも融和だけではなく対立のあることです。あるテキストの書き手の意見を批評する、ということは大切なことですが、そもそもなぜこの書き手はそんな意見を書いたんだろうか、というところまでを引き受けて、そこをも含めて応答していくことが必要だろうと思っています。テキストを読むことが、生徒たちの日常の語ることについての内省や発見につながるようにしたいと思っています。

もっともである。「対話」を重視したい。賛成である

そもそもなぜこの書き手はそんな意見を書いたんだろうか、というところまでを引き受けて、そこをも含めて応答していくことが必要だろう」とぼくも思っている。

異論なし

しかし、このような授業を展開するためには、「「人は何かを語らざるをえない存在」、「人の本質は語ること」と設定」しなければならないのか。また、このような授業を展開するために、「「人は何かを語らざるをえない存在」、「人の本質は語ること」と設定」すればそれでよいのか。依然として不明なままである。

古田氏の「認識」とちがう立場の授業を批判する理由が不明瞭

これはかなり理念的な話だろうというのは自覚しています。現実問題こうした授業を設定することがどこまでできるのかも難しいとも思っています。
しかし、この立場から私はいろんな実践には意見をしていくと思います。私は教材ベースで授業をする人間なので、その教材の可能性を書き手や語り手の語る行為の深さに注目していきたいと思っています。したがって、この深さの軽視はもとより、誰かが何かをどのようにしてそもそもなぜ語るのか、ってことをほとんど考えていない授業についてはやっぱり批判もします。

ぜんぜん「したがって」ではない。なぜ「その教材の可能性を書き手や語り手の語る行為の深さに注目していきたい」ということが、論理的に「誰かが何かをどのようにしてそもそもなぜ語るのか、ってことをほとんど考えていない授業についてはやっぱり批判もします」という結論を導き出すのか。

注目していきたい」なら勝手にそうすればよい。しかし古田氏と同じようなことを「ほとんど考えていない授業」が、古田氏が「注目」していることを無視しているからという理由によって「批判」されてはたまらない。何を踏まえての「やっぱり」なのか。

授業にはその授業の目標があり、その目標を達成するための手立てとして生徒の学習活動が展開される。

その授業の目標が適切であるのかを問うのはよい。また、その授業が目標を達成するための手立てとして正しく機能したのか、というのを問うこともよい。これらは、授業研究にとって極めて重要な問いである。なぜなら、授業は身につけさせたい資質や能力、あるいは知識や技能を目標として設定し、それを身につけさせるために行われるからだ。

その目標が、身につけるべき資質・能力・知識・技能とは言えない場合や、目標が適切であるにもかかわらず、その目標の達成が授業内での学習活動が適切に設定されていないが故になしえない場合であれば、その授業は批判され、改善されるべきである。

しかし、古田氏個人が「注目していきたい」程度のことで、「批判」されるのは迷惑極まりない。

尻込みしてぜんぜん「自分をかけて」いない

もちろん、教材ベースではない授業はたくさんありますし、この立場では実践できないものもあるでしょうし、必ずしもこの立場で授業ができるわけではありません。私自身もずっとこの立場で授業をするわけでもありません。しかし、この立場で分析、構想ができるような授業に関しては意見を述べていきたいと思います。

なぜこのように尻込みするのか。

尻込

ためらってぐずぐずすること。おじけること。ちゅうちょ。逡巡。(精選版日本国語大辞典)

古田氏は、自分が「注目していきたい」立場を踏まえていない授業を「批判する」と言う(またしても「も」が出てくる。この曖昧さは何か)

しかしそのすぐ後で、そうでない授業もたくさんあり、この立場から実践できないものもあるし、自分自身もずっとその立場で授業するわけではないとまで言う。これは二枚舌とでもいうべき事態ではないか。

二枚舌

矛盾したことをいうこと。一つのことを二様にいうこと。うそをつくこと。(精選版日本国語大辞典)

古田氏は自身の主張をもっと断定して論じるべきではないか。断定し、覚悟をもってはじめて、次のように言いうるのではないのか。

自分をかけている」のなら、尻込みすべきではない。

氏は自身の著作『国語の授業の作り方』で次のように説明する。

本書には、「かもしれません」、「でしょう」という断定を避ける表現が多く見られます。これは私の経験や認識が不足しているため、誤った理解の浸透を避けようといういわば姑息な述べ方なのですが、一方で完成された教育がないことにもよります。(…)あくまでも本書で述べられていることは今の時点における私の1つの見解であって、異論があることは認めています。唯一の方法はありませんから、あくまでも私が向き合ってきた授業において比較的有効であった方法や視点を暫定的に述べているに過ぎません。

(…)学びとは生徒だけのことではなく、授業者のことでもあり、常に学び続け、問い続ける存在であるのです。(pp.11-12)

常に学び続け、問い続ける存在である」ことと、「断定を避ける表現」を「多く」使う「姑息な述べ方」にどんな関係があるというのか。

研究者が論文を書くとき、それが絶対的に正しい「唯一の」真実である、と考えて書いているのか。暫定的に、現在自分が明らかにしたことについて書いているのではないのか。論文を書くときに、古田氏は「「かもしれません」、「でしょう」という断定を避ける表現」を「多く」使うか。

古田氏自身が言うように、このような言い回しは端的に「姑息な述べ方」なのであり、それ以上でも以下でもない。

誰の「言葉についての認識」が甘いのか。

古田氏は、「最近のあくてぃぶらーにんぐ」について、次のようにもツイートしている。

古田氏の当該ブログ記事を上のように読んできた限りでは、古田氏自身、「語るとか言葉ってことについての認識が甘い」と言わ「ざるをえない。古田氏自身がブログで使っている「言葉についての認識をさらっと流していることに対して、それで(その程度で)いいのか?と思って」しまう。

(理論家/実践家としての)古田氏に期待することは

けっきょくぼくの最初の疑問はわからずじまいだが、それはよい。

最初に述べたように、ぼくに議論をコントロールしようとする自覚が足りなかったことは、事実であり、反省している。もともとのぼくの疑問についての議論にならなかった責任の一端は、ぼくにある。

自分の違和感をうまく言語化できないままに、議論をはじめてしまい、「人の生に関わる本質的な議論」が、いつのまにか「人間の本質」とは何か、のような(無意味な)ものになってしまっていたことは、完全にぼくの落ち度である。

古田氏が意図的か意図的でないかはわからないが、「人の生に関わる本質的な議論」という語を、するっと「語るってことは人間の本質とみなしてもいい」とスライドさせていることに留意し、慎重に議論をすべきだった。古田氏は、「人の生に関わる本質的な議論」を、次のツイートでは「言葉とか国語とか、人の生に関わるような議論」と言い換え(https://twitter.com/coda_1984/status/1056535463995957248)、さらに「語るってことは人間の本質」、「語ることが人間の本質」、「人は語ることが本質だ」(https://twitter.com/coda_1984/status/1056562510151639040)に、そしてブログでは「語ることや言語が人間の本質だ」、「人間は語る存在だ」、「人は他者に語らざるをえない存在なのだ」へと言い方を次々に変えていく。

しかしこのことに注意すべき役割を担っているのはぼくであり、この役割を十分に果たせなかったことは、どう考えてもぼくが悪い。だから、ぼくの疑問が古田氏の応答によって解決しなかった、その責任の一端はぼくにある

ただ、ぼくが思うのは、古田氏には、氏自身の立場を、ぜひ実際の授業記録と突き合せて論じてほしい、ということである(すでにやっていらっしゃるのかもしれない。その場合はその文章をぜひ読みたい)。

なぜなら、ぼくには授業を見たときに、どのようにすればその授業が「語ることや言語が人間の本質だ」という「認識」をもっているのかいないのかを判断できるのかがわからないからである。

この仕事はおそらく古田氏にしかできない。いまはまだ。

もしもこの「認識」をもっているか否かで授業が変わるのであれば、ぜひとも持っておきたい。しかしまだぼくにはわからない。

わざわざツイッターの「短文」ではなくブログで書いたくらいに重要なことだと古田氏が判断しているのだから、その「認識」を必要性をきちんと理解したい。そのために、実際の授業と突き合わせて論じてほしいのである。

おそらく、古田氏はある具体的な授業をもとにして、「最近のあくてぃぶらーにんぐ」についての違和感を表明したのだと思われる(もしも具体的な授業を想定していないのにあんなツイートをしたとしたら、それはただのレッテル貼りでしかない)

であれば、このような抽象的な議論をするのではなく、その具体的な授業の分析と批判を通して、「「人は何かを語らざるをえない存在」、「人の本質は語ること」と設定」することの意義を詳細に検討してほしい

最近のあくてぃぶらーにんぐ」のような大きな対象を最初から論じるべきではない。そのような大きなものを対象にするときにこそ、尻込みし、慎重になる必要がある

具体的な授業の検討がなければ、この「認識」の効果はおそらくわからない。また、この「認識」が「非常に重要」か否かもわからない。

人の本質は語ること」と設定しないことで、どのような点がその具体的な授業実践に不足するのか。「人の本質は語ること」と設定しておけば、設定しない場合よりも、どのような点で優れた実践が可能なのか。「人の本質は語ること」と設定することによって、分析し得ることと、分析し得ないことは何か。限界はどこにあるのか。

具体的な実践の分析を通して「人の本質は語ること」だという「認識」の有用性を主張しなければ、議論は進まず、授業改善もできない。

付記

実はこの一件のまえに、古田氏はつぎのようなツイートをしていた。

これは、ほとんど間違いなく、ぼくのこのツイートに対する感想である。

さて、古田氏は的を外している。

「結局はどういう生徒を相手にしているかにもよる」。それはそうである。当たり前だ。どんな生徒にも通用するスキルなどというものがあるとは思っていない。

しかし、その上でぼくは、「傾聴スキル」を「説明スキル」よりも先行して習得すべきだ、と言っているのである。これはぼくなりの覚悟である。

これに対し、「いや、説明スキルの方が先行されるべきだ」と言うわけでも、「傾聴スキルは説明スキルより重要ではない」と言うのでもなく、「よいマッチングであれば、生徒は伸びる」のような無内容で当然なことを言われても意味がない

良いマッチングができているという前提があって「それはそれで充実した授業になる」などと言うことに何の意味があるのかわからない。当たり前だからだ。

これを「語らざるをえない」古田氏に思いをはせる必要性を感じない。

やはり古田氏には覚悟が足りない。

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