目次
なぜこの記事を書いているのか。
宇佐美寛編『作文の論理——[わかる文章]の仕組み』を再読した旨のツイートをしました。
これを再読していた。 pic.twitter.com/nBxEN1I7Ag
— しばしん (@sh1ba_sh1n) March 11, 2019
このツイートに、あすこまさんがリプライをくださった。引用します。
僕、この本に限らず宇佐美さんのスタンスは個人的には勉強になるのですけど、でも、実際にはここで批判される池田さんや米田さんの文章で充分に人は説得されるという事実の方が重要じゃないかとも思ってて、だとすると宇佐美さんの批判が役立つ場面は意外に限定的ではないかとも思ってしまいます…。
— あすこま (@askoma) March 11, 2019
いきなりすみません、なんというか、宇佐美さんの論は快感ではあるのですけど、これはみんなが身につけるべき国語力なのかな(アカデミックに厳密な議論をする、ごく一部の人たちのものじゃないかな)という点で、国語教育にどう取り入れるべきかわからない、という感じでしょうか。
— あすこま (@askoma) March 11, 2019
あすこまさんの言っていることはすごくよくわかる。
ぼくも、宇佐美寛氏の著書を何冊か読んで、すげえなあ、と思ってきた。
また、ぼくの場合はあすこまさんとは(たぶん)違って、こういう授業がやりたいなあ、と思ってきたタイプなのだけど、しかし宇佐美氏の主張をどこまで素朴に受け入れ実践に落とし込むか、という点についてはずっと悩んできた。
大変優れた実践であるなあと思っても、でもなんとなくしっくりこない、自分がやりたいのはこれかと言われるとそうじゃない気がする、というのは確かにあって、自分がうまく言語化できない授業観、国語教育観の影響の大きさを感じる。
— あすこま (@askoma) March 11, 2019
とりあえず以下のようにざっくり回答してみたものの、やはりちゃんと考えておきたい、というか、現時点でのぼくの考えを整理しておきたい、と思ってこの記事を書いています。
ありがとうございます。あすこまさんは、以前たしか『私の作文教育』の書評記事でも同じような疑問を書いてらしたと思います。ぼくも、宇佐美氏の著書に触れてから、氏の主張をどのように授業に組み込めばよいのか、また組み込むべきなのか、と問い続けてきたつもりです。
— しばしん (@sh1ba_sh1n) March 11, 2019
詳しくはブログに書ければ、と思いますが、ぼくのいまのスタンスは、宇佐美氏の主張する作文教育や国語教育は、それだけで必要十分ではないが、必要ではある、という感じです。分析〔哲学〕的な方法は、いつも、すべてに必要とは限らないが、知っておく必要はある、みたいな感じです。
— しばしん (@sh1ba_sh1n) March 11, 2019
この辺りは、それぞれの先生方によると思いますし、また時数の関係で何かを入れるなら何かを捨てなければならないため、他を削っても指導すべきか、という視点が出てくるとは思います。
— しばしん (@sh1ba_sh1n) March 11, 2019
ぼくとしては、他を削っても指導すべき、と考えているという感じです。(なんちゃってではあっても)分析的な思考に触れさせておきたい、というスタンスです。
— しばしん (@sh1ba_sh1n) March 11, 2019
しばしんさんに勉強不足と言われると立つ瀬がないのでやめて下さいw 宇佐美先生のはほんとに厳密なクリティークで快感なんですけど、それこそ学部や大学院生の方の訓練用という感じで、中等教育では他を削ってでもとまでは思えないというのが正直な気持ちです。ぜひ、ブログを拝読したいです。
— あすこま (@askoma) March 11, 2019
とはいえ、この記事を書くのには、ものすごく苦労したというか、悩みまくりました。こんなに、書けない、と思ったのは久しぶりでした。どう書くべきか、何を書くべきか、とひたすら考えては書き、消し、書き、と久しぶりにかなり試行錯誤しました。他の方にとってはどうでもよいことかもしれませんが、ぼくにとっては、ものすごく大切な時間を与えていただけて、とてもうれしかったです。
あすこまさん、ありがとうございます!
とりあえず整理してみる。
あすこまさんのツイートを(疑問?)を次のように整理してみる。
- 宇佐美氏に批判されている池田氏や米田氏の文章で、充分に人は説得される
- (①の事実により、)宇佐美氏の批判が役立つ場面は限定的である
- (②の推論により、)宇佐美氏の論は、みんなが身に付けるべき国語力とは言えない
- (以上のことから、)宇佐美氏の論を中等教育段階での国語教育に取り入れるべきかは疑問である(積極的に取り入れるほど優先度は高くない)
といった感じでしょうか。(間違っていたらごめんなさい)
もちろん、あすこまさんが、宇佐美氏の主張に対して批判的であるわけではないことはわかっています。
中等教育における国語教育の一環として、他の指導すべきことを捨ててまで、氏の論を取り入れる必要があるのか、という問いを投げかけているのだ、ということは理解しているつもりです。
上記を踏まえて、この後のぼくなりの考えを読んでもらえると幸いです。
くり返しますが、ぼくはあすこまさんのような疑問をずっと持ってきましたし、今ももっています。そのうえで、ぼくとしては、現時点では
取り入れるべきである
というふうに考えています。この点は前提としてもっておいていただきたいです。
とりあえず、あすこまさんの疑問に表面的に返答するとしたら、
- 池田氏や米田氏の文章は、すでに宇佐美氏の指導を受けたことのある人の書いた文章であり、
- また、池田氏や米田氏の文章が説得的であるのは、宇佐美氏の指導によるものであるところが大きいのではないかと思われます。(特に米田氏については、著者略歴欄に「宇佐美寛氏の授業「論理的思考」を受ける。その時、看護職に不足しているのは「論理的思考」だと認識し勉強を始める」とある)
- もしも、池田氏・米田氏の文章が説得的であることが重要なら、そのような説得的な文章を書くに至るまでの宇佐美氏の指導は役に立つものだったと言えるのではないでしょうか。
- そしてまた、読者が「充分に説得される」文章を書けるようになることが重要ならば、宇佐美氏の論は身に付けるべき国語力と言えるのではないでしょうか。
- だとすれば、宇佐美氏の論は、中等教育段階で、国語教育に取り入れるべきだ、とまではいかないまでも、取り入れる必要性はけっこうあるのではないでしょうか。
みたいな感じになりそう。
とはいえ、この返答にはかなり飛躍や問題がある(実際、例えばあすこまさんは4でぼくが反論するような主張はしていない)し、あすこまさんの疑問はそういうことではないと思います。
宇佐美氏の主張はさまざまな分野で、さまざまに展開されていて、それを整理する余裕はいまのぼくにはないので、いまはひとまず、ぼくがなぜ宇佐美氏の論(全部とはいえないが)が必要だと思っているのかを書いておきたい。だから、これはあすこまさんへの返答、とか、反論ではなく、ぼく個人の考えの表明だと思ってほしい。
「くどく、しつこく」読む必要があるのか。
宇佐美氏は、文章をかなり細かく(「くどく、しつこく」)読んでいきます。
これが、あすこまさんの言われるような「宇佐美さんの批判」の基本的な方法論だと思う。例えば次のような文章。
「この本が生まれえなかった」のはなぜかという理由が書かれているらしい。
「生まれえなかった」とは「出版されなかった」と同じ意味らしい。その前の段落の最終の文、つまり⑤の文が次のとおりだからである。「⑤あたり前のことのようであるが、この本は、10年昔には出版されようがなかったし、今から10年後には、たとえ出版されたとしても、かなり様相が異なっているだろう。」
しかし、この⑤の文で理解できないのは、後半すなわち「今から10年後には、たとえ出版されたとしても、かなり様相が異なっているだろう。」である。いったい「様相」とは何のことか。装丁や値段のことではないだろう。(そんな事柄が十年後にかなり異なっているかどうかは、何とも言えない。)そういう外的な性質ではないとしたら、内容のことにきまっている。「この本は、10年昔には出版されようがなかったし、今から10年後には、たとえ出版されたとしても、かなり内容が異なっているだろう。」と言いたいらしい。
しかし、かなり内容が異なっている本ならば、それはもう別の本なのであって、「この本」ではないはずである。いったい「この本」とは、どういう意味なのか。どういう本のことなのか。
宇佐美寛編『作文の論理——[わかる文章]の仕組み』pp.82-83
このような、「くどく、しつこ」い読み方は、確かにいつもどこでも必要か?と問われると、必要な時もあれば、必要ない時もある、ということになるでしょう。
あすこまさんのツイートの、「宇佐美さんの論は快感ではあるのですけど、これはみんなが身につけるべき国語力なのかな(アカデミックに厳密な議論をする、ごく一部の人たちのものじゃないかな)」というのは、このへんを指しているのだと思います。
つまり、先に書いた「必要な時」とは、あすこまさんの言う「アカデミックに厳密な議論をする」時、と言えるかもしれません。
この点についてはぼくも基本的には同意します。
実際には「アカデミックに厳密な議論をする」時にも、こんなふうに「くどく、しつこく」読める人ばかりではないことがあってたいへん残念だ、みたいなことは措いておくとして、「必要な時」以外でこんなに「くどく、しつこく」読む必要はほとんどないように思えます。
むしろ、このように「くどく、しつこく」読む方法を日常的なコミュニケーションの場に持ち込むと、嫌われたりします。いやな奴だと思われます。しっかりした人間関係ができていたとしても、下手したら絶縁状態になるかもしれません。リスキーですね。
しかし、ここでぼくが考えるのは次のようなことです。
日常的なコミュニケーションで使わないことは、学校で指導しなくてもよいのだろうか。むしろ、日常で学ぶ機会がないことこそ、学校で意図的に指導すべきなのではないか。
代表的な「必要な時」が、「アカデミックに厳密な議論をする」時だったとしても、それ以外に「くどく、しつこく」読むのが「必要な時」はないのか。あるとしたらいつか。
上のそれぞれの問いについて、とりあえず今はこんなふうに考えています。
日常で学ぶことができないことだからこそ、「くどく、しつこく」読む方法を、授業で指導する必要がある。
ある。また、自分が読んでいるものがほんとうにそうであるのか疑ってかかるときや、自分が無批判に受け入れているものを認識するために必要である。
日常で学ぶことができないことだからこそ、「くどく、しつこく」読む方法を指導する必要がある。
この主張には前提があります。
- 日常生活だけでは学べないことを学ぶために、私たちは学校に行く
- 学校で行われる授業は、意図的・計画的に行われる
ぼくは、学校は、学校に行かなければ学べないことがあるから行くのだと思っています。
学べること、とは、別に、単なる教科の知識・技能だけではありません。例えば勉強の仕方を学ぶために行くのです。あるいは何かを調べたいと思ったときに、それを自分で調べられるようになるために学校に行くのです。
逆に言えば、学校に行かなければ学べないことがないのなら、学校に行く必要はないと考えています。家庭で、子どもに意図的・計画的に指導をできるのであれば、学校に行く必要はありません。
重要なのは、意識して教えようとされなければ学べないことを学ぶために学校に行くのだ、ということです。
また、以前にも書きましたが、授業というのは不自然な行為です。
一斉授業を成立させるために、まずは身につけておきたいことだからこそ、指導案や板書計画を作成する必要があるのです。すべてが自然に進むなら、案や計画など不要です。そんなものを作ったり考えたりしなくても、生徒が自然に学習していくのなら、そもそも教室はいらないのです。自然に学習することができないことを学習するために、不自然な場を作り出して、ある範囲のことを学習するのが授業です。自然な流れだった、みたいな感想を授業後に聞くことがありますが、それは自然な流れを不自然に作り出した結果にすぎません。みんなが同じ方向を見て座っているとか、指定された4人グループで数十分間なにかの作業を一緒にしたり話し合ったりするとか、一斉に問題を解くとか、教室という限定された空間からある一定の時間出てはいけない、などということはまったく自然なことではないでしょう。この意味で、教室はある強制の場である、というのは確かだと思います。
とはいえここでいう「自然」という語には、たぶんいろいろ問題があります。ここではひとまず、「特に意図されなくてもそうなる」くらいの意味でとってください
ここではひとまず、日常生活に必要なこと、という視点で、授業で扱う必要の可否を考えるのは適切ではない、ということを書きました。
しかし、だからといって、即座に「「くどく、しつこく」読む方法を指導する必要がある」と言うことはできません。不自然なことであれば、何を指導してもよい、ということにはならないからです。ぼくは「くどく、しつこく」読む方法が必要であるから、学校で指導すべきだ、と言わなければなりません。
ぼくは中等教育の後半(つまり高等学校段階)にしか携わっていませんが、高等教育とちがい、教育を受ける人数が多い中等教育で、日常生活では学べないけど大切なことは指導する必要があると思っています。
ここまで書いてきて思ったのですが、これって、もうひとつ前提を含んでいますね。「日常生活で必要なことは、日常生活で学ぶことができる」、という前提。でもこれぜんぜん自明じゃないし、たぶん間違っています。うむむ。まあちょっと宿題、ということで。
自分が読んでいるものがほんとうにそうであるのか疑ってかかるときや、自分が無批判に受け入れているものを認識するために必要である。
「くどく、しつこく」読む方法が、日常的なコミュニケーションの場に直接登場すると、人間関係が悪化するかもね、みたいなことを書きました。
しかし、このような「くどく、しつこく」読む方法を用いて読むことができたとしても、それを口に出す必要も、書く必要もありません。単に自分が読んで、それで終わり、でも、もちろんいいのです。
え、そうなん? じゃあ別にやる必要ないじゃん。と思われるかもしれません。しかし、ぼくは、できた方がよい、と思っているのです。
しかも、かなりな程度思っています。
ぼくは、何かを書く時には、あるいは授業の準備をするために、勉強するために、何かを読むときには、けっこう「くどく、しつこく」読んでいます。
例えばビジネス文書を作るときです。学校から保護者あてに出す文書をかなりたくさん作っていますが、そのいちいちを、ぼくは自分で書いたあとで、「くどく、しつこく」読んでいます。できるだけ別な解釈ができないように、慎重に文書を作成するとき、それが「アカデミックに厳密な議論をする」場合でなくても、「くどく、しつこく」読むことは非常に役に立っています。
また、生徒用のプリントを作るときにも、同様に「くどく、しつこく」読みます。他の先生のプリントのチェックを頼まれたときにも、「くどく、しつこく」読みます。そうすることで、生徒の思考をぼくの文章が邪魔しないようにしているつもりです。(このブログについてはけっこう書き散らしていますけれど)
授業準備をするときにも、素材文をかなり「くどく、しつこく」読みます。生徒たちがどのような読みをしてくるかわからない状態では不安だからです。できるだけ、素材文から読み取れること、素材文の不備・不足・不十分をたくさん探します。
しかし、これらはそれぞれの具体的な場面で役に立つということももちろんあるのですが、むしろぼくがなにかを考えるということをするうえで、かなり役に立っていると思います。
「くどく、しつこく」読む方法というのは、簡単にはわかってあげない、ということだと思っています。
それは、自分の暗黙の前提を、できるだけ捨てて読もうとすることでもあります。
また、自分の暗黙の前提に自覚的に書くことでもあります。実際、この文章を書きながら、「くどく、しつこく」読み直していくことで、ぼくの文章の不十分な部分がたくさん見えてきます。そしてそれは、自分がうまく思考できていないところです。
生徒たちの〈他者意識〉(〈他者〉への意識。ちなみに〈他者〉とは、自分とはわかり合えない可能性がある人のことをここでは想定していますが、あとで書くように、実際にはもうちょっと広い意味で使わせて頂いています。)は高いものではない、とぼくは思っています。
どのように書けば、話せば、〈他者〉に伝わるのか、ということ自覚が弱いように思います。同世代の、わりと仲が良い相手や、家族、先生とのコミュニケーションに甘えている部分があるからです。
「くどく、しつこく」読む方法を知ることは、〈他者〉を理解するために、あるいは〈他者〉に理解してもらうために、どんなことを考えなければならないのかを意識させます。「こういうふうに書いてあっても、わからない人はいるんだ」とか、「こういうふうにも読めるんだ」とかを、生徒が自分の力で考えていくことは、極めて重要なことだと思っているのです。
その具体的な方法が、ぼくにとっては、宇佐美氏の「くどく、しつこく」読む方法だった、ということになるかもしれません。
ぼくはけっきょく〈他者意識〉を重視しているようで
この記事を書きながら、いろいろと考えて、例えばこんなツイートをしました。
なんとなーく、今考えてることっていうのは、ぼくはわりと書くとか読むとかを、コミュニケーションのツールと考えてるところが強いのかなってことですね。他者意識だいじよね、というのをかなり強く考えていて、ほんでその方法として、現時点で宇佐美氏のような考えが最良だと思ってる、ってことかも。
— しばしん (@sh1ba_sh1n) March 12, 2019
要するにクソリプしたり、されたりしないような読み書きの力をつける、というのを重視してるんかもしらん。そういう意識のなかで、自分、というものをつくっていく、みたいな、そんな感じのことを考えてる気がする。別に宇佐美氏的なものじゃなくてもいいんだけど、とりまいちばん良さそう、みたいな。
— しばしん (@sh1ba_sh1n) March 12, 2019
だからほかに、方法があるならそれにするかな。別に信奉してるわけではなく、たんにぼくにとって便利そうだった、という話かもしらん。ま、実際にはぜんぜん便利ではない気もするけど。むしろむずい。
— しばしん (@sh1ba_sh1n) March 12, 2019
読むとか書くとかを、コミュニケーションの道具だけにしておきたくはない、というのをすごく思っている反面、とはいえコミュニケーションの道具としての読み書きは、他者との関係(によってみえる自己)を考えるうえで、かなり重視してしまってる、みたいなとこかもしれません。
— しばしん (@sh1ba_sh1n) March 12, 2019
ぼくはとにかく、〈他者〉とのコミュニケーションという側面を、国語科教育者として意識しているようです。
それはたぶん、ぼくが次のような考え方で生きているから、というのがあります。
初任研のとき、よく「どんな授業を良い授業と思うか」という問いを出され、ほかの同期たちが「生徒が主体的に参加する授業」とか、「生徒自身が自ら考える授業」とか言ってて、まあそれはそうだろうとか思ってたけどしかしそれが「生徒が強制されず」みたいな話と結びついた時にはごり反論した。
— しばしん (@sh1ba_sh1n) December 2, 2018
ぼくはまあ、主体性みたいな概念自体に異議を唱えるタイプの思想とかに親しんできたから、主体的である、ということが常にすでにいつでもどこでも良いものだとは思えず、まして主体性は根源的な受動性から生まれるという立場をとるので、一定程度の強制や刺激、「記号の暴力」は不可欠と思う派です。
— しばしん (@sh1ba_sh1n) December 2, 2018
要するに、〈自己〉が何かを勝手に(自然に)考えたりすることなんてない、と思っているわけです。
何かを考えたり、何かをしようと思ったりすることには、必ず〈他者〉の存在が前提にある、という考えを持っているのです。ここでの〈他者〉というのは、人に限らず、「記号」一般だと考えてもらっていいと思います。
これは、Twitterとかをやっているとものすごく感じることです。Twitterを開いて、ぼうっとTLを見ている。何やらいろんなツイートが流れていく。そのなかの、なにかか自分にひっかかる。なにかこのことについて書きたい、と思う。ツイートする。
これ、もともと潜在的にはあったものが、顕在化されただけだと思うけれど、そのきっかけになったのは〈他者〉だと思うんです。なんの刺激もなく、考えることはなかったと思います。
そしてまた、おなじように重要なことは、その〈他者〉からの刺激をうまく受け取れるように訓練すること、だと思っているのです。
〈他者〉はいたるところに溢れています。問題は、それを受け取れるかどうかです。何気なく、流してしまっては、思考は始まらない。小さな刺激にも、きちんと反応できるようになること。また、大きな刺激であっても、ざっくりと反応するのではなく、小さく分けて反応できるようになること。
つまり、うまく受け取ることこそが、うまく思考し始めることだと、ぼくは考えています。
この、「〈他者〉からの刺激をうまく受け取」るための訓練の方法として、「くどく、しつこく」読み、書く、というのが、だいじなんじゃないかなあと。こんなふうに思うのです。
まあこのへんはほんと、思想的な話だとは思います。何を重視するか、ということです。
ちなみに、宇佐美氏は自らの国語教育に関する思想を、次のように書いています。
言葉を教えるのは、コミュニケーションを行う能力を育てるためである。
これは私の思想である。つまり、私はそう信じていて主張し、他人にそう信ずるように勧めたいのである。
思想というものは、実証のしようが無い部分を含んでいる。実証科学よりも深い層において働いている前提である。
「人は生きて成長する方が死ぬよりも幸福である。」という思想は教育学の前提であろう。しかし、この前提自体は、それが正しいと信ずるしかない。その正しさは実証しようが無い。
しかし、〈信じやすさ〉というものは有る。言葉はコミュニケーションのために有る。だから、コミュニケーションのために言葉を使う能力を育てる。これはかなり信じやすい思想である。これ以外により信じやすい〈言葉の教育〉思想が有るか。
ある目的で、ある内容をだれか(受信者)に知らせたい。知らせて(発信して)、考えを変えさせたい。また、だれかが言うことを受けて(受信して)何かを知りたい。
このような問題解決がコミュニケーションである。
宇佐美寛『〈論理〉を教える』p.208
〈他者意識〉の弱い(と思われる)生徒と関わっていて
ぼくはわりと困難校を回っている教員ですので、進学校で教えた経験はありません。
生徒指導困難校に勤務してきた教員が考える生徒指導で大切にしたい8つのことしかしこのことをもって、他の授業や実践を批判したことはありません。
むしろ、進学校でできることが、いまの学校でできるようにするために、どうすればいいかを常に考えてきました。だからどんな校種の実践でも、また、どんな学力層の生徒を相手にした実践でも、同等に敬意をもって学んできたつもりです。
しかし、最近思うのは、困難校の生徒たちは、かなり〈他者意識〉が低いのではないか、ということです。
自分の身近な人たちと関わることばかりで、自分の言葉が通じない人とのコミュニケーションの機会を避けているように思われることが多くあります。人に理解してもらおう、とか、人のことを理解しよう、という意識が、あまりないように感じられることが多くあります。また、そのことを、ぜんぜん問題だと感じていないようにも思うことがあります。(これはただのぼくの印象です。ご批判は素直に頂戴いたします。主語が大きすぎるきらいがあります。傾向があるように思う、くらいに受け取っていただけると幸いです。)
そのとき、「くどく、しつこく」読むとか書くとかは、〈他者意識〉を無理やり、強制的に与えるのに、ぼくにとっては都合のいい方法なのです。
彼らがざっくり理解したつもりでいることが、実は細かく見ていくと正しかったり正しくなかったりすることがあること。また、彼らが理解してもらえるつもりで書いていることが、相手の理解の努力がなければ、誤解を与えかねない表現である可能性があること。
このようなことは、「くどく、しつこく」読み書きすることによって、自覚され、注意されるようになると思っていますし、また一定の効果を上げているように感じています(ぼくの指導している生徒たちは、どうすれば相手にうまく伝わるかや、わからないものをどうやってゆっくり読んでいけばいいのかなどを考えるようになってくれています)。
そして、この〈他者意識〉をもって読み、書き、あるいは話し、聞くことが、ぼくにとっては国語科で指導すべきことであり、また、自由に考え、自由に生きることにつながるとも思っているのです。
うまく刺激に反応できるようになることは、普段流してしまうことに立ち止まれるようになることでもあります。立ち止まって、考える。すると、一般的には常識だと考えられている考えが、実はそうではないのではないか、という問いが生まれてくる。疑えるようになる。自由に考えるということは、今まで素通りしてきたことを、立ち止まって考えられることだと思うのです。
つーか読むって話ばっかになってない? → 書く、という点で
宇佐美氏は、次のように言っています。
ある文章のありがたさ(コミュニケーションに使われた場合の有効性の程度)は、それを書く立場に立ってみると、よくわかる。つまり、自分が情報の送り手の立場になってみるのである。「自分だったらこう書く。」という意識になるのである。
賛成です。
自分が書くという立場に立つことで、自分が読むときに見えるものが変わってくる。
しかし、そのためには、どう書くか、という意識がまずなければいけない。
自分が書いたものが、〈他者〉に日常生活ではありえないくらいに「くどく、しつこく」読まれても耐えうるように書いてみる、という経験があれば、読むときに見えるものが変わってくる。
そう思うのです。
このような点からも、まずは〈他者〉に対する意識をもたせたい。それは、読む、書く、話す、聞く、そして考えるの基本だとぼくは思っているのです。
伊藤晃一氏の授業実践の記述から
この記事を書いているあいだに、いろいろな本を読み直したり、新しく読んだりしました。いろいろ考えさせられました。特に、伊藤晃一氏の、例えば次のような記述を読むと、ほとんどぼくは伊藤氏と同じように考えているなあ、と思います。
物語を、語句が指し示す意味や風景まで確認する読み方、言うなれば「語句にこだわる読み」は、時間を使う。短い文章でも注意深く、繰り返し読む必要がある。結果として頭を使う。このような読み方こそ、書かれたことを正確に読むことを助ける。〔…〕
与えられたテキストを疑うこともせず、ただなんとなく読むだけではこのようなことには気づけない。
このような読み方は、短い期間であれば、テストを解くための読みには向かないかもしれない。〔…〕しかし中・長期的に考えれば、この読み方は必要である。正確に読めない者が、正確に考察できるはずがない。
定時制高校の生徒の中には、テキストを素早く読むことが苦手な者もいる。しかしそれでもよい。いや、むしろその方がよい。はやく読めることより、たとえ時間はかかっても「語句にこだわる読み」ができた方がよい。
阿部学・伊藤晃一『授業づくりをまなびほぐす』pp.94-95
とはいえ、では「語句にこだわる読み」はどうすればいいのか。ぼくにとってその方法が、宇佐美氏の実践のような方法だった。ほかにも方法があるなら、試したいと思うのです。ただ、いま、いろいろ試してきた結果、この方法がいちばんしっくり来ている、ということなのだと思います。
なんかあんまりまとまらなかったのですけど、こんなにぐちゃぐちゃとゆっくり考えて書いては消し書いては消ししたのは久しぶりだったので、自分の考えを整理するためにも、この記事は必要だったと思います。
そしてまた、そんなにぐちゃぐちゃと考えたのは、あすこまさんという〈他者〉からの刺激を受けて、どうすれば伝わるだろうか、どうすれば誤解のないように書けるだろうか、と、時間をかけて、「くどく、しつこく」考えたからだと思うのです。
ありがとうございました。
コメントを残す