対話的な学びと場面緘黙(かんもく)

あんまり話題にならないように見えるアクティブ・ラーニングと場面緘黙の生徒との関係。

場面緘黙の生徒がいる教室で、アクティブ・ラーニングってどんなふうにできるのだろう?

「主体的・対話的で深い学び」はいいんだけど

次の学習指導要領では、「主体的・対話的で深い学び」がキーワードになるっぽい。

個人的にはすごくいいことだと思うし、高校の授業実践のアーカイブのなさや、あまり質が高いとは言いにくいほぼ講義オンリーで進む授業とかを日々目の当たりにしていると、必要なことだよなーとも思う。

また、基本的には「主体的・対話的で深い学び」は、発達障害など、特別な支援を必要とする生徒にも有用である。

でも、場面緘黙の生徒についてはどうか、という問題があって。 そしてまた、そのことはほとんど話題になっていないような気がする。

場面緘黙症 selective mutism って?

場面緘黙症とは、ものすごく簡単にぼくなりに言えば、

普段は喋れるのに、ある状況になると、話したくても話せなくなる症状

のことである。

実は学校現場でも、場面緘黙についてはあまり知られていなくて、なんとなく喋れないんでしょ、みたいな認識しかない場合がある。

また、明らかに場面緘黙のような症状が出ていたとしても、「かんもく」という語を口にすると、「そんな大げさな……」という反応をされることも多い。

もちろん教員が診断をすることはできないが、適切なアセスメントのためにも、生徒に場面緘黙の可能性があるということを頭に入れておくことは必要不可欠なんじゃないかと思う。

そんななかで、わりと参考になるのは次の本たち。

実際にどんな症状の場合、場面緘黙とお医者さんが診断するのかについては、DSM-5の「選択性緘黙」の診断基準を見ればわかる。

場面緘黙? 選択性緘黙?

ところで場面緘黙症は、DSM-5およびICD-10では、「選択性緘黙」という訳語が採用されている。

しかし、

選択性緘黙という名称は自分の意思で話さないことを「選択」しているという誤解を生じやすいため、「場面緘黙」の方が適切であるとする意見が当事者や保護者支援者の間では少なくない

(高木潤野『学校における場面緘黙への対応ーー合理的配慮から支援計画作成まで』p.10)

実際、ぼくも場面緘黙という語はわりと耳にするが、選択性緘黙というのはあまり聞かない気がする。

確かに場面緘黙の生徒を目の当たりにしている身からすると、本人にはぜんぜん選択する余地がないように見える。

話さないのではなくて、話せないのだ。それは自分で選んでいるとは言いがたい。

まさに、ある特定の場面で、ぜんぜん話せなくなる。

しかもその、自分がある場面で話せないということについて、本人は改善したいと思っていたり、自分が悪いのだと思っていたりするから、余計に「選択性」という日本語がしっくりこない感じはする。

ので、とりあえずここでは「場面緘黙」という語を使うことにする。

場面緘黙の生徒にどうなってほしいのか?

場面緘黙の具体的な事例については、上に挙げた本の中でも紹介されているので省く。 ただ、実際に場面緘黙らしき生徒を授業のなかで何人か抱えているいまの自分の現状から考えたことを書く。

たとえば、心を許した人とか、限られた友達とはまったく問題なく話ができる生徒がいる。

じゃあいいじゃんとか思うのだけど、授業でほかの生徒とちょっと話してみよう、という場面になると、とたんに固まってしまい、なにも言葉を発さず、ときにはからだの動き自体もなくなる(いわゆる緘動状態になる)。

こういう状況は、わりと場面緘黙あるあるらしい。
DSM-5の診断基準のなかにも、「他の状況で話しているにもかかわらず、話すことが期待されている特定の社会的状況において、話すことが一貫してできない」という項目がある。

こういう生徒に対して、強制的に「話せ!」と指導しても意味がないし、むしろ状況は悪化するだけである可能性が高い。

先に挙げた高木氏の本のなかでは、場面緘黙の児童・生徒への介入のゴールを、次のように考えている。

介入のゴールは「話せるようになること」ではなく「本来の力が発揮できるようになること」である。「本来の力」とは、「その人らしさ」と言い換えてもよい。だから、訓練をして話す力やコミュニケーション能力を高めることよりも、「自分らしさってどういうものなんだろう」ということを本人が理解して、そういう姿が学校やいろいろなところで出せるようになることが大切だと思っている。

高木潤野『学校における場面緘黙への対応ーー合理的配慮から支援計画作成まで』

要するに自己認知能力をあげて、その上で自分に必要なコミュニケーションの仕方を習得することがだいじ、ということなのかな、とぼくは理解している。

そしてそれは、実際には場面緘黙の生徒だけではなくて、すべての生徒にとって必要なことなのだろう。

学校は、社会とのトランジションとか最近よく言われているように、社会に接続するための途中である。 だから、宇佐美寛氏も言うように、学校はない方がよい。

病院の役割が、病気の人を治して社会に復帰させることであるように、学校の役割は、社会に出て本人が困らないようにすることだ。

ずっと学校に居続けるのは不健康である。

だから、自分のことをきちんと理解して、それをもとに自分なりの仕方でコミュニケーションをとれるようになることは、極めて重要だし、それができるようにさせるためのサポートをするのが学校の役割でもあると思う。

だから、高木氏の意見には、おおむね賛同する。

しかし同時に、「主体的・対話的で深い学び」を実現させようとすると、どうしてもその生徒に「話す」機会を与えざるを得ないのではないか、という疑問が残る。

書字のコミュニケーションを主に用いればどうか?

こういった問題を考えるときに、対話的というのを、口頭でのコミュニケーションに限定しないというのは一つの手だろう。

アクティブ・ラーニングと言うと、なぜかすぐにグループでの話し合いとかを連想してしまいがちだけど、別に話さなくても対話的な学びは実現できるはずなんじゃないかな。

話せない生徒は、言いたいことや考えていることがないのではない。話せないだけなのだ。

だから、考えていることはたくさんある。

それを書かそう。

書いたものを糸口にして、その生徒に適切なコミュニケーションの仕方を授業に組み込んでいこう。

そんなふうに考えている。

この記事を書いた理由

結局答えはすぐには出ない。
また、生徒によって、対応は変わるはずだ。
こうすればぜったいにうまくいく、っていうのは、特別支援対応ではあり得ないことと、これまでの経験でよくわかっている。

紙上討論の実践など、学ぶべき先行実践はたくさんある。
学校の先生に必要なのは、

多様な生徒に対応するために、とりあえずいろいろ調査して、調査したことをもとに実際にやってみて、うまくいったかどうかを評価して、で、またやってみる
ということだ。

そのためにも、まずは場面緘黙という語を知って、みんなが普通にこの言葉を使って話せるようにすることがだいじなのだ。

毎日が挑戦で勉強の日々です。

でも、生徒に勉強しろとか挑戦しろとか言うのであれば、ぼくらがまずは勉強して、やってみないといけない。

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