香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読む(4)「逸話(*格言)」【読書実況】

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香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読んでるよ!

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今回は、「Ⅲ 逸話(*格言)」を読んでいきます。もちろん今回も作文あるよ!

目次とかは、こちらの明治図書出版のウェブサイトをご覧ください

理論編

「この課程では逸話を訓練するのではない」(p.76)と始まるこの章。

では何をするのか。

この練習のためには、まず一つの逸話が与えられた。そしてその逸話を様々な方法で引き伸ばし、結構の整った一篇のエッセイに仕上げるのである。(…)ただし、引き伸ばすといっても、自由に、勝手気儘に引き伸ばしていいのではない。生徒は、あらかじめ定められた項目と順序に従ってエッセイを構成しなければならなかった。

(p.78)

こういうの、人によって好き嫌いはあると思うんですけど、がちがちの制約の中でなにかを書いたり話したり作ったりするっての、ぼくはけっこう好きなんですよね。まああれですよ、ヘイズコードみたいな話ですよ

で、どういう制約かっていうと、めちゃめちゃ型にはめるわけですね

書く内容を決めて、しかもその順番通りに書け、という。全部で9項目あって、

0 逸話の引用:ただ引用するだけ
1 賞賛:逸話を言った人を簡単にほめる
2 言い換え:逸話を自分なりに言い換える
3 直叙:逸話の正しさを直接的に説明する
4 対照:逸話とは反対の例を挙げて、それを否定する
5 譬え:たとえる
6 実例:具体例を挙げる
7 権威:権威ある人の言葉とかを援用する
8 勧告:だから格言にしたがった方がいいぜ、ってまとめる

これをぜんぶ書いていくわけです。一つの逸話(格言)についてね。

これ面白いですよねえ。ぼくはすごく好きだ、こういう課題

さて、この節のタイトルにもなっているH・I・マルーの「それにしても、何とおずおずした進み方であろう」という批判を引用したうえで、この練習方法の価値は、プロギュムナスマタが「多声的、複声的に書く」ということを目指していることを踏まえ、次のように説明される。

今回の「逸話」の訓練では、八つの項目の中に多くの声が現われ、それがそのまま論証(論法)の種類となる。では、これらの論証はどのような順序で配列されるべきなのであるか。〔…〕先に示した標準モデルである。生徒はこの順番通りに材料を並べ、それをテーマを変えて繰り返すことにより、一篇の論争的エッセイを仕上げるための構成の感覚を身につけていく。

(p.87)

先に挙げた順序で書くことがいちばんいい順番かはぼくにはまだ判断できない。

できないけれども、ひとつの方針を示してくれているのはとてもありがたい。これを踏まえたうえで、自分なりにアレンジできるからね。

順番を変えてみて、「うーん、なんかしっくりこねえなあ」となるかどうかはまだわからないけど、練習方法がめっちゃ具体的だから、やってみようかな、とは思えますよね。

また、たぶん賛否はあるだろうけど、こういう指摘も。

文章が書けない生徒をともかくも書けるようにしてやるのに、最も即効性のあるのが、文章構成の型を教えることなのである。文章の構成さえ覚えれば、たとえアイディアは凡庸だったとしても、とりあえずは文章の体をなして記述できる。〔…〕まず、構成の感覚を育てるということが、彼ら〔=プロギュムナスマタの作者、教師たち(しばしん注)〕の出した結論だったのだ。

(p.88)

これはぼくはとてもいい話だと思う。

形式と内容は不可分っていうか、どっちが先で、どっちがあと、みたいなの、ないと思ってるので、不自然であってもある型みたいなのを与えるの、だいじ。

不自然さについては次のように言及されているし。

われわれは、言語生活を豊かにするために、実際の生活ではやらないことを、あえて取り立てて訓練するのである。

(p.88)

その通りです。

っていうか、こういうことを考えてないと、授業なんて不自然なことやってられないですよ。

授業の不自然さについては、前も書いた。

一斉授業を成立させるために、まずは身につけておきたいこと

授業は不自然でいい、というか、不自然だからこそ重要なのだと思う。

実践編

練習課題例1

今回の課題は、アルベール・カミュの有名な「私は正義よりも、まず私の母を守る」という言葉を逸話として取り上げた。〔…〕

受講生には、このカミュの言葉を弁護する文章を書かせる。

(p.89)

カミュの言葉で「逸話」のトレーニング。

先に挙げたすべての項目を満たすように、あの順番で作文する。たいへん。でも次のような言葉を読むと、元気がでる。

これは「不自然」を承知の上の訓練であるから、多少不恰好ではあっても全項目をそろえる努力をしたほうがよい。最初から、できなければそれでいいということにすれば、粘り強く考え、調べることを、むしろ妨害する結果になってしまうからだ。

(p.92)

はい! がんばります!

実際に課題の解答を書いてみた

0 逸話の引用

アルベール・カミュは、1957年12月にストックホルムのスウェーデン学生寮で講演したとき、彼をなじったアルジェリアの青年に対して「私は正義を信じていますが、正義よりも先にまず私の母を守るでしょう」と言い返した。

1 賞賛

アルベール・カミュはフランスの作家であり、サルトルと並んで、第二次世界大戦直後のフランス文学を代表する作家である。彼は代表作『異邦人』で、理由なき殺人を犯して死刑の判決を受ける男を主人公に、人間存在の「不条理さ」を書いた。そのうえで、後年はそのような「不条理さ」への反抗から、キリスト教やマルクス主義といった集団への反抗へと思想を展開させていった。

2 言い換え

そんなカミュが、アルジェリアのフランスからの独立運動が起こったときに、従来の自身の主張に反する態度をとって、上のように言ったことは、当然ながら多くの批判を招いた。しかしカミュは自分自身にとって重要であることは何か、ということを的確に捉えていたのである。カミュが言ったこと、それは「本当に自分にとって大切なものであるならば、それは社会的にそれと認められた正義よりも優先されるべきである」ということである。そして、その「本当に自分にとって大切なもの」が肉親であるならば、肉親への愛情を社会的な〈正義〉よりも優先させるのは、当然のことである。

3 直叙

なぜそう言えるのか。そもそも正義とは、相対的なものである。立場によって、正義は異なる。人々の多くが信じる正義の総体が、社会的な〈正義〉である。人々が広く正しいこととして認識していることの総体が、〈正義〉である。
確かにカミュは「正義を信じてはいます」という。しかしそれは、「私も社会的に正義と考えられているものを信じている」ということである。しかしその「正義」は、社会的、集団的な正しさ(〈正義〉)であり、個人的な正しさ(正義)とは相いれない場合がある。したがって、カミュの集団への反抗は、ここにも一貫して現れているのである。個人的な情動を無視する形で成立する〈正義〉には、反抗する必要がある。

4 対照

もしも、個人の情動を無視し、集団的な〈正義〉ばかりを重視していたらどうなるか。自分の情動を無視して、社会的に正しいことをし続けないといけないということは、自分の人生を押し殺し、人の人生を生きることになる。自分で考えるということをやめ、人の顔色を窺って生きるということになる。だが、私は私の生を生きるべきである。

5 譬え

あなたが男性であり、ものすごい便意をもよおしたとする。もう、ほんとうに、我慢できない。ほんの少しでも気を緩めれば、直腸から大便がどばーと出そうだ。トイレを探すが、女性用のトイレは見つかったけれど、男性用のトイレは見当たらない。周りには人がまったくいないし、中に人がいる気配もない。だとしたら、どうするか。女性用トイレで用を足すのではないか。それが〈正義〉と照らして明らかに間違っていたとしても、もらすよりはマシではないか。

6 実例

1961年4月11日にイスラエルのエルサレムで、ナチス政権下のドイツで親衛隊将校だったアドルフ・オットー・アイヒマンの裁判が始まった。アイヒマンは、ユダヤ人捕虜たちを、「絶滅収容所」に移送する任務に従事し、2年間で500万人ものユダヤ人を列車で運んだ。自身の行ったこの行為について、彼は「命令に従っただけ」だと言い、また「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」と述べた。アイヒマンは、当時のナチス政権下の〈正義〉を遂行したのかもしれない。だがそれは正しさとは遠く離れている。

7 権威

孔子は「父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り」と言う。たとえ法を犯すことがあったとしても、それ以上に大切にすべきものがあれば、そうするのがよいのである。それが「直きこと」なのである。

またルソーは言う。「人間をつくるのが理性であるとすれば、人間を導くのは感情である」、と。自らの情動を軽視してはいけないのだ。

8 勧告

自分の人生を生きるためにも、自分にとってほんとうに重要なことを知るべきである。カミュに学ぼう。あなたなら「私は正義を信じていますが、正義よりも先にまず」何をするだろうか。

書いてみての感想とか

はい。わかります。【譬え】がひどいです。

でも【譬え】むずい。

【実例】はわりとなんとかなる。【権威】も。この辺は調べるという感じだから。これはこれでむずいけど、手掛かりはある。

けど、【譬え】はきびしい。

しかし【譬え】も実は知識とか調査でカバーできるっぽい

太宰の例を引用したために実例と判断したのであろうが、この場合必ずしも与えられた材料をそのまま使う必要はない。太宰自身、亀井勝一郎を弁護するために、肉親への情という譬えを用いているのである。ここでの〈譬え〉は、まさにこのような例を指すのであって、受講生はこれに倣って自分で譬えを考え出すか、太宰の用いた譬えをそのまま使えばよい。

(p.96)

ちなみにですね、本書での課題の方向性としては、「正義よりも肉親への愛情を優先する」といった論が立てられているので、ぼくは完全にミスってるんですね。だからあんまり本書に載っている資料も使えなかった。イキってしまった。

身の丈に合わないことをするもんじゃないですね。

素直さ、だいじ。

しかし、いろんな文章の例が挙げられていて、その中で、ここは【譬え】とか、ここは【直叙】とか説明してあるのが面白い(これは理論編の話だけど)。

こういう日々の読書でのレトリックへの意識は、自分が書く時に役立つのだろうし、また書こうと思ったことをうまく【譬え】られないだろうかと、読書は進むよどこまでもって感じでいい話だ

ちなみに各項目の冒頭の形式にも言及がある。

たとえば〈直叙〉では、「なぜなら」から始めさせ、逸話の正しさを説明するという流れをつくらせる。〈対照〉では、「もし」からはじめて、逸話と反対の事例を展開させるのである。〔…〕/このように、構成の感覚を身につけさせるためには、多少具体的な表現形式にまでふみこんで指導することも時には必要となる

(p.97)

型にはめる書き方ってのに、賛否はあると思うんだけど、ぼくはわりと積極的に評価しているタイプです。

まずは形式かな。

でも型にはめたって、個性ってのはあふれ出てくる。

むしろそういうものこそ、ぼくは見て、認めてあげたいなあとか思います。

練習課題例2

やや長めの、「子供向けの本からとった、江戸中期の禅僧盤珪永琢の次の話」(p.97)を逸話として使って作文。

要するに、逸話を要約して引用し、その上でさっきのカミュの時と同じように、残りの8項目に合わせて作文していくわけですね。

とにかくやってみよう。

実際に課題の解答を書いてみた

0 逸話の引用

むかし、盤珪永琢という禅僧が、播磨国の書写山で学校を開いていた。ある日、ひとりの生徒のお経がなくなる。生徒たちが不思議がっていると、また数日経って別の生徒の墨がなくなった。こうした盗みが続くので、生徒たちは互いに監視し合い、ひとりの生徒が犯人だと突き止めた。そのことを盤珪に伝えたが、盤珪は「そうか」と言うだけで何もしようとしない。何度か報告していたものの、一向に態度を変えようとしない盤珪に対して、生徒たちは「あの生徒をやめさせないなら、ほかの全員が山を下りようと思う」と告げる。それを聞いた盤珪は生徒全員を集めて、次のように言った。「もともと、わたしはただしい生徒たちに教えることはなにもない。わたしが教えたいのは、盗みをするような、悪い心を持っている生徒だけでいいのだ。そういう生徒を教えて、正しい人間にしたいのだ」。それを聞いて、盗みを働いた生徒は、それから心を入れ替えて必死に勉強した、という。

1 賞賛

盤珪は、江戸時代の臨済宗の僧である。人は生まれながらにして不正不滅の仏心をもつという考えを唱え、形式的な座禅修行を否定し、日常生活そのものが座禅に通じると、簡単な言葉を使って広く人々にさとした。彼の弟子は全国に数万人もいたという。

2 言い換え

多くの弟子をもつ盤珪の教育方針がわかりやすく表れているのが、先に挙げたエピソードである。要するに彼は、正しい行いがすでにできる生徒よりも、「悪い心を持っている生徒」にこそ寄り添い、教育していく必要があると言うのだ。

3 直叙

なぜなら、師の助けを必要とするのは、すでに望ましい行動ができる生徒ではないからである。そういう生徒は、自ら正しく生きていくことができるだろう。現段階では「悪い心を持っている生徒」にこそ、師の助けが必要である。そのような生徒を正しい道に導いていくことが、師の役割なのである。

4 対照

もし、正しい生徒ばかりを優遇し、かわいがっていると、「悪い心を持っている生徒」が師の教育によって「正しい人間」になる機会はなくなってしまう。それでは教育の意味はない。

5 譬え

病院には病気を治すために行く。つまり、病人は健康を害しているから、それを正常にするために病院に行くのだ。病院は、健康でない人のためにある。健康な人が通院しつづけていれば、それはおかしいと皆が思うだろう。

6 実例

『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話』(以下『ビリギャル』)が話題になった理由もここにある。中心的な登場人物である「さやかちゃん」ができる生徒であれば、「坪田先生」は不要だった。逆に言えば、「坪田先生」にとっては、「さやかちゃん」が「学年ビリのギャル」だったからこそ、教育すべきだと思ったのである。だからこそ、この「坪田先生」の教育は話題になったのだ。

7 権威

吉田松陰は言う。「教えるの語源は「愛しむ」。誰にも得手不手がある、絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない」、と。「正しい人間」ではないように見える者をも、「絶対に」「見捨てるようなこと」をせず、「愛しむ」態度こそ、教育者として必要な態度なのである。

8 勧告

教育に携わる者は、この視点を忘れてはならない。できない子に熱心に関わることが、教育なのだ。

いやあ、わりと前言撤回です。

【実例】とか【権威】とか、調べるのむんずいわ。これ、かなりハードだ。超面白いけど。

〈賞賛〉のために、逸話の主である盤珪永琢について調べることは前回と同様であるが、〈譬え〉〈実例〉〈権威〉等を記述するには、逸話の意味を考えたうえで、それに関連するいくつかの情報を自ら集めなければならない

(p.105)

ほんとこれがきつい。

【権威】のほうは、まあ、格言集とか事典とかを見てなんとかするにしても、【実例】きびしい。これ、いい例だとは思わない。でもなんとかひねり出した感じです。ごめんなさい。

さて、これが書く活動における「取材」にあたる学習なんだ、と著者は言います。

〔従来の作文指導の「取材」段階に当たる部分との(しばしん注)〕大きな違いは、取材した内容を配列することで構成が決まるのではなく、決められた構成に即して内容を取材するという点にある。〔…〕構成の感覚があって初めて、それに応じた「取材」が可能になる

(p.107)

これはすごいわかる。

調べることってのは、すごくだいじで、最初に調べるってことが多いと思うけど、でも実際には、書いているうちに、あれも調べないと、これも調べないと、と出てくるのがふつうなんですよね。

この感覚を指導するという意味でも、この課程はかなりおいしい。

ちなみに、こういうふうに書いていると、こういうこと考えている人なのかー、とか素朴に思われたら嫌なんで、いちおう言っておくと、別にぼくの平素の考えと、課題の解答として書いたこととにはほとんど関係がありません

というか、こういう課題は、自分の考えとはまったく異なった考えを、あえて書く、というのがけっこう大切なんだと思っています。

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