【書評】助けを必要とする人たちにとって学校(高校)はどんな場所になれるのか?

今の勤務校の現状を詳しく書くことはしないけど、簡単に言えば生徒指導困難校と言える。でも問題行動の多くは、生徒が困っていたり、何らかのSOSを発しようとしていたりすることが原因だとぼくは思うようにしている。
そんななか、上岡陽江+ダルク女性ハウス『生きのびるための犯罪(みち)』を読んだ。

自分の知らない自分について知るための本を探して

学校図書館のことを考えなければならない立場におかれて、どんな本を選定すべきかを考えている。

読み物としては、文学作品とかを、国語の先生は置きたいと思うのかもしれないけど、ぼくなんかはぜんぜん、そういう感じではない。

むしろ図書館は、自分の知らなかった自分に気づくための場所のひとつだと思っているので、社会福祉的な色のあるものをできるだけ入れて、生徒たちに紹介していきたいと思っている。

そんななか読んでみたのが、この本。

「ダルク女性ハウス」って?

「ダルク女性ハウス」は東京の下町の小さなアパートでささやかに始まりました。薬物依存症からの回復を望む女性たちのための日本で最初の民間施設です。薬物依存症という問題を抱えながらも、社会の中でなんとか今日一日を生きている方々が安心して暮らせるよう願っています。薬物を使わずに暮らしていくために、どうしたらよいのか。ともに考えながらサポートをおこなっています。

ダルク女性ハウスとは

という施設。
また、この本には、次のように紹介されている。

薬物やアルコールなどの〈依存症〉の女性たちの回復と社会的な自立を支援する施設(p.4)

依存症のことについては、学校でもいろいろと指導する機会があるわけだが、実際の依存症の当事者の話を読んだり聞いたりするという機会はなかなかない気がする。

アルコール依存症とかすごい怖いなあ、とまんしゅうきつこさんのマンガとかを読むと思う。

でも「すごい怖いなあ」くらいの感想が出てくるってことは、それだけ自分とは離れたところにある感じなんだとも思う。

まして、15歳とか17歳とかの生徒たちが、現実感をもって薬物依存やアルコール依存について聞いているとは到底思えない。

「あたしたちのこと」、「仲間たちの話」

その点、この本は当事者のことばがまっすぐに書かれていて、でも依存度がいちばん高かったときのことをだらだら書いてあるわけでもない。
この本に文章を書いている女性たちは、なんていうかすごく身近な感じがするのだ。

第1部「あたしたちのこと」のなかに、「仲間たちの話」として、当事者たちの体験談が書かれている。

それがなんていうか、ものすごく、素朴な感じがするのだ。

たとえば凛さんという人の書いた文章は、こんな感じ。

正直言えば、今回、印象に残っているのは、プロジェクトを手伝うボランティアの人たちが、ハウスのメンバーたちを毎回駅まで迎えにきてくれたり、お昼にはおいしいお弁当を出してくれたりしたことかな(笑)。みんなから歓迎されていた感じがしたんだ。
なにより、そうやって同じ場所に通っているうちに、顔なじみができるでしょう? そうすると、つぎに会ったときとかに、しぜんにおたがい会釈するようになったり、ときには、「また会ったね」とか「元気?」とかことばを交わしたりするようになって、なんていうかそういうのって、世界が広がる感じがするじゃない? だから、ハウスのみんなにとっては、そんな体験が、今回、いちばんこころに残ったことなんじゃないかって思う。(pp.39-40)

すっごく素朴だなあ、と思うとともに、ああ、生徒と話してるときもこんな感じ、と感じる。
ぼくらがいま、関わっている生徒たちと、この人たちは、やっぱりそんなに違いがないな、と思う。

薬物依存症のことを、ぼくはほとんど知らないんだなあ

一応学校の先生をやっていると、薬物乱用防止教室なんかが授業の一環としてあって、一通り知識は入っている。
と、思っていた。でもぜんぜんそんなことはなかった。

たとえば次のようなことを、ぼくはほとんど知らない。

日本では、まず薬物依存症の治療がきわめて不足しているという事実がある。そのいっぽうで、覚せい剤の単純使用の初犯者には、懲役一年六か月、執行猶予三年が言いわたされ、そのまま釈放されるけれど、執行猶予中の再犯の場合には、懲役一年六か月の実刑に加え、前回の一年六か月の執行猶予が取り消されるため、はじめて行く懲役の刑期は、三年にもなる。刑務所から出てきた人の再犯の場合は、さらに判決は重くなって、一回の覚せい剤使用で三年から四年の判決を言い渡される場合もある。そして、終始、もちろん、刑務所にいるあいだも、治療はなされない……。(pp.111-112)

こういうことは、やっぱり知ろうとしないと分からないことだ。

どうやって生徒に学ばせるか。

読書指導とアクティブ・ラーニングと……みたいなことを考える。

こんな学校があったらよかったのに…

ダルク女性ハウスでは「当事者ミーティング」をたくさんするらしい。

いまどんなことを感じているかとか、考えているかとか、なぜ自分がそういうふうになってしまったんだろう、とか、これからどうしていけばいいのかな、なんていうことも。

例として本書に挙げられているのは、「こんな学校があったらよかったのに(学校でもっと守ってほしかった)」など。

そこにはこんなことが書かれている。

  • 勉強ができなくても怒られない。
  • 自分に興味を持ってほしい。
  • SOSに気づいてほしい。
  • 運動や勉強ができなくても「君はいい子だね」とほめてくれる。
    (p.31)

うーん。
今のぼくに、そして学校にできているだろうか。
問いかけ続けなければならない。

保護者も困っているときに

何年か教員をやって、幾度も幾度も保護者と話をしてきた。

保護者が言ってくるいわゆるクレームというやつは、たいていの場合、「私は困っています! どうすればいいんですか!?」というSOSであることが多い。

というか、ぜんぶそうだ。

それが今ではよく分かっているつもりだが、本書の終盤に書かれた「もしも、お母さんが「死にたい」と言ったら」のなかに紹介される「ポストがあふれる理由」などを読むと、ぼくはちゃんと保護者のことを考えられているのだろうかと自問せざるをえない。

そう、当時(いまもたいして変わりはないけれど)、わたしは毎日とてもつらくて、朝、起きることなんてできなかったし、昼間も昼間で具合が悪いことが多くて、息子が寝て、深夜、あたりが静かになると、ようやくからだを少し起こしながら、ひと息ついていた。(p.163)

そんな時期には、郵便物を取りに行くことすらできなかった。まるでずっと留守にしている家みたいに、手紙やら、チラシやらが玄関のポストにたまり続ける。ドラマみたいだけれど、本当だ(p.163)

そんなふうだから、息子が小学生だったとき、彼が学校から持ち帰ってくる「保護者の方へ」と題された書類なども、当然、たまっていく。親はそれを読み、そしてなにか必要なことを書き込んで、切り取り線からきれいに切り取ったりして、期限までにこどもに持たせなくてはならないはずだ。わかっているけれど、それができない。(pp.164-166)

こんな状況の家庭が、たくさんではなくても、あるんだということを常に考えたい。

それでもできないことはある。

でもやっぱり知ることがだいじだ。

知らないことをたくさん知れて、また明日からがんばろうと、そう思える本でした。

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