香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読んでるよ!
香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読む(1)「序論」【読書実況】 香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読む(2)「寓話」【読書実況】 香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読む(3)「物語」【読書実況】 香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読む(4)「逸話(*格言)」【読書実況】今回は、「Ⅳ 反論と立論」を読んでいきます。
もちろん今回も作文あるよ!
ただ、今回で、ちょっといったんこのシリーズは止めます。
最後の課もやっときたいのだけど、別にしときたいことができたので。
目次とかは、こちらの明治図書出版のウェブサイトをご覧ください。
理論編
ディベートっぽいですよね。
序章で、「予備練習」としてのプロギュムナスマタ、という話をしていたと思うんですけど、じゃあ、なんの「予備」やねん、デークラーマティオーのや、っていう、やっぱりぜんぜん覚えられない「練習弁論」という意味を表すギリシア語の課程の予備なのでした。
ところでこのデークラーマティオーってのは、
政治弁論の訓練であるスアーソーリア(説得演説)と法廷弁論の訓練であるコントローウェルシア(論駁)とに分かれていた
(p.111)
ということなんですけど、この「反論と立論」の課程は、後者の「コントローウェルシア」のための「予備練習」ってことらしい。
で、どういう練習かというと、「反論」、「立論」それぞれについて、次の各項目を埋めていく作文です。
- 情報の発信源に対する不信
- 話の概要
- 不明確な点
- ありそうにない点
- 不可能な点
- 矛盾する点
- 不合理な点
- 情報の発信源に対する信頼
- 話の概要
- 明確な点
- ありそうな点
- 可能な点
- 一貫した点
- 合理的な点
ぱっと見ただけで、この訓練はすごい力がつきそう。しかもすごく大切なことだと思う。
ぼくたちは、あえて反対するとか、あえて賛成するとかいう不自然な振る舞いを日常ですることはないけれど、議論したりするときには、必ず相手の意見を積極的に理解しようとすることが求められる。
これ、口で言うのは簡単だけど、すごい大変なことですよね。
作文は、まじで思考力って思うので、あえてこういう両面から、しかも細かく項目立てして書いていくってのは、他者の存在に自覚的になるためにも重要なことだと思う。
実際、このあたりのことは、次のように説明されている。少し長いけど、かなりだいじなことなので引用します。
われわれが「私」にこだわる限り、「私」を超えてものを見、考えることはできない。われわれは「私」の好きなものを好み、嫌いなものを嫌い、賛成であるものに賛成し、反対であるものに反対する。「私」は常に狭く閉じられ、容易に拡がろうとはしない。プロギュムナスマタの教師達が意図したのは、この「私」を拡張し、豊富にすることだった。そのために、課題の要求に対して、現実の「私」とは違うレトリカルな「私」を設定させ、それを表現の主体とする。こうすることで、生徒は、現実の「私」が感じてもいないことを感じ、思いもかけないことを思い、考えてもみなかったことを考えるようになる。
(p.122)
ここからは、他者ってのは、ぜんぜんわかり得ないものとして現前するかもしれないけど、そういう人たちを受け入れるために、「私」を拡張させる必要がある、みたいなことを読み取ることができる。
うん。その通りですよね。
ともすると学校の学習活動が、生徒の好きなことをさせるとか、生徒の関心に基づいて進めるとかになってしまいそうな気がしているけど、ほんとうにだいじなのは、そんなに好きでもないこととか、嫌いなこととかをやってみることで、自分を拡張させることですよね。その意味で、学校は強制する場所としての価値をもつんじゃないかな。
総合的な学習の時間とか、ともすれば自分の関心があることを調べる、みたいな話にばかりなってしまう気がする。
ここにはすごく危機感があります。
もちろん好きなことをとことん追求することもだいじだ。けど、そんなに好きじゃないことを、仕方なしにでもやってみる。お、意外と面白いかも、となっても、いやあ、やっぱ嫌いだわ、となってもいい。それがわかることはけっこうだいじなことですよね。
実践編
練習課題例1
寺田寅彦の「流言蜚語」の一節を読み、
この寺田寅彦の文章を参考にして、まず、「大地震の最中に、暴徒が東京中の井戸に毒物を投げ込んだ」という噂を否定する文章(反論)を書く。〔…〕そして次に、今度は同じ噂について、それを肯定する文章(立論)を書く。〔…〕ただし、今回は、対照とするのがはっきりとしたかたちのない噂、流言の類いであるから、2の「話の概要」は省略されることになる
(p.125)
実際に課題の解答を書いてみた
反論
「流言」とは、簡単に言えば〈噂話〉のことである。〈噂話〉の信憑性は、そもそも低い。〈噂話〉は、人から人へと伝わっていく過程で、脚色や誇張、省略、付け足しなど、さまざまな加工をされていく。もともとの話とは、真逆の話になってしまうこともしばしばである。したがって、「流言」というのは、それが「流言」であるということだけですでに疑ってかかるべきなのだ。
「暴徒」が「東京中の井戸に毒薬を投じ」たと言う。しかし「暴徒」とは誰か。大地震、大火事の最中に、その機に乗じて「井戸に毒薬を投じ」たい「暴徒」はどんな人物か。目的は何か。混乱か。しかしすでに、大地震、大火事で人々は混乱しているのである。混乱を求めるならば、すでに十分な状態である。そもそもそんなリスクを冒す必要がない。
仮に、毒薬を入れたというのがほんとうだったとしよう。では、井戸水に、どのくらいの毒薬を入れれば、井戸水を飲んだ人の体に影響を及ぼすことができるのだろうか。おそらく膨大な量が必要になると考えられる。その、膨大な量の毒薬を、どうやって準備するのだろう。またどうやって運ぶというのだろう。
また、その膨大な量の毒薬を、どうやって入手し、どうやって保管するのか。当の「暴徒」たち以外の目に触れず、そのような量の毒薬を入手し、保管するなど不可能である。しかも、その量の毒薬を「東京中の井戸」に投じようとするならば、たくさんの人手がいる。そのような人手をどうやって手配するのか。大地震、大火事の混乱のなかで。
どのくらいの毒薬が必要かを計算し、その膨大な量の毒薬を秘密裏に入手し、保管し、そして「東京中の井戸に毒薬を投ずる」ために、実行するためにたくさんの人間が、統制された状態で動く。こんなに計算高い「暴徒」たちが、なぜ世間が混乱しているときに、このような綿密な計画を実行するのだろうか。準備の周到さに反して、実行する動機が極めて不明瞭であるのは、ないことではないかもしれないが、おかしいと感じるのがふつうである。
どのような目的や動機によって、「東京中の井戸に毒薬を投じ」るのかは不明である。しかし合理的に考えて、そのようなリスクが高いことを行う「暴徒」たちには、おそらく広く一般に知らしめたい主張や思想があるはずである。ここまで述べてきたように、かなり周到な準備や計画が必要なこのテロ行為を、なんとなく面白そうだから、といった理由で実行に移すとは考えにくい。主張や思想が、このテロ行為の背景にはあるはずである。にも関わらず、人々が混乱しているなかで、このようなことを行っても、彼らの主張や思想が知られる機会になるとは考えにくい。だとすれば、彼らはもっと平時に、混乱のない時にこそ、このようなテロ行為を行うべきではないか。混乱時にこのような行為を行うことは、合理的ではない。
立論
この「流言」は確かに〈噂話〉である。しかし、火のないところに煙は立たない。何も事実がないところからは、それがたとえ噂話であったとしても生まれようがない。したがって、噂話が流れたことそれ自体が、この「流言」に一定の信頼性があることを示している。
どのような社会にも抑圧された人々が存在する。彼らは、社会への復讐心を、静かに燃やし続けているはずである。しかし、平時にはそのような復讐心は、潜在的なままにとどまっていることが多い。何かのきっかけがなければ、彼らの復讐心は顕在化しないだろう。この場合、そのきっかけが、大地震と大火事による人々の混乱であったのだ。むしろこの地震や火事による混乱が、潜在的な「暴徒」を顕在化させたのである。
この混乱のなかで、これを好機と考え、それまでは妄想でしかなかったことを、実際に行おうと思うことはあり得ることである。井戸に毒薬を投じること。人々が日々、必ず生活のために利用する井戸に、テロ行為をしかけること。人が生きていくためには、水は必須である。そこを狙う。自分たちを虐げてきた人々の日常を壊すために、井戸水をそのターゲットにしよう、という発想は、自然な思考である。
実際、「毒薬」を井戸に投げ込むことは、そう難しいことではない。この「毒薬」とは、別に特別なものである必要はないからだ。要するに、井戸水を飲んだ人の体に、不調が表れれば良いのである。したがって、人体に影響が起こり得る植物などを使えばよい。また、井戸水を飲んだ全員の健康を害する必要はない。井戸水を飲んだ数人が、普段とはちがう状態になる。それによって、噂は信憑性を増す。噂の信憑性が増せば、人々は井戸水を飲めなくなる。この時点で、「暴徒」たちの目的は達せられる。人々の日常を壊すことができたからである。
いままで抑圧されてきた人々だからそこ、混乱に乗じて犯行を行うのである。彼らはまた、独自のコミュニティをもっていたはずである。抑圧されている人々同士で連帯し、日々のつらさや不条理を共有し合っていただろう。そしてそれは数人規模のコミュニティではないはずだ。したがって、全員が、できる範囲で、井戸に「毒薬」を投じるという作戦は、彼らの思いとうまくマッチするだろう。ひとりでは難しいかもしれない。しかしこの機に乗じて、みんなでやれば、自分たちを虐げてきた人々の日常を壊すことができる。そう考えるだろう。
混乱に乗じて行うことは、抑圧された人々にとっては、理に適っている。抑圧された人々は、一般に、人々に疎まれる存在である。彼らの行動には、良くも悪くもみな目を向けてる。したがって、平時に同様の行動を起こしたなら、すぐに犯人がわかり、リンチにあうことが目に見えている。だからこそ、混乱に乗じたのである。彼らには思想があるわけではない。彼らの目的は復讐なのだ。したがって、自分たちが犯人であるとわからないようにすることは、利に適っているのである。
書いてみての感想とか
やってみると、この、ありそうな点と可能な点とか、一貫した点と合理的な点とかの書き分けが明確にできないなあ、と思った。
ただ、そこまで明確でなくてもいいのかもしれないな、とも思う。
訓練の目的は、どちらの立場からも、複数の切り口で論じられるようになることだと思うので。
この課題の肝は、
反論 → 立論
という順番で作文することだ。
これはけっこう新鮮な視点で、立論→反論よりも、たぶん書きやすい。
最初に、[反論]の課題を通して反論の観点を学ぶ。〔…〕次に、[立論]を書くことによってもう一段階上の反論の仕方を学ぶ。すなわち、相手の根拠や前提に対する反論である。しかも、観点ごとに行うので、異なる一つ一つの根拠や前提を検討しそれぞれに噛み合った反論を考えなければならない
(p.133)
これ、実際にやってみるとものすごく頭使う。ある主張に対する反論を書くことは、まあそんなに難しくないのかもしれない。
この課題のように、観点が与えられている場合には特にそうで、何を書くべきか、どう反論すべきかの手がかりがあるから、(わりと)書きやすい。
でもその反論を書いた上で、さらにその反論をするのは、けっこう骨が折れるんですね。書いているうちに、反論側の視点にけっこう同化している場合が多いんじゃないかな。
で、その上でもう一回、最初の主張を擁護しようとするから、反論で書いた視点に、それぞれ再反論していく、って感じになるんですね。これむずい。
ただ、こういう練習はめちゃくちゃだいじだよなあ、と。
たとえば小論文指導とかで、自分の主張とは反対の意見を挙げて、それを再反論する形で書くと説得力が増すよ、みたいな話をよく聞くけど、それってすぐできるものじゃない。
こういう練習をしていくなかで、あえて逆の立場でもっともらしいことを考え、さらにそれに反論する視点を得る、みたいなゴリゴリの喧嘩師になっていけるのかもしれないです。
練習課題例2
カミュの小説『異邦人』で、「逮捕されたムルソーが留置場で見つけた古新聞に載っていたという設定で」(p.133)紹介される、「異様な事件」について、
受講生は、この新聞記事の内容について、その信憑性を否定する反論の文章と、それを肯定する立論の文章をそれぞれ一つずつ書く
(p.134)
という課題。
実際に課題の解答を書いてみた
反論
この話が載っていたのは、古新聞である。古新聞ということは、ムルソーが見た時点よりもずっと昔に書かれた記事である。その頃の記事が、徹底的な取材をした上で、すべて真実や事実をもとに書かれていたとは考えにくい。おそらく記者の脚色や誇張があっただろう。
記事の内容は次のようなものである。
一人の男が金を儲けようと家を出て、25年後に、金持ちになって妻と一人の子供を連れて地元に帰ってきた。男は母と妹を驚かせようと、二人が経営するホテルとは別のホテルに妻子を泊め、ひとりで母たちが経営するホテルに行った。しかし男が自分の息子だと母は気づかなかった。思いつきの冗談で、「部屋を借りよう」と金を見せた。夜になって、母と妹は金ほしさに男を槌でなぐり殺し、金を盗み、死体を河へ捨てた。朝になって、男の妻が来て、昨晩の悲劇も知らずに、男の身元を明かした。それを聞いた男の母は首をつり、妹は井戸へと身を投げたということである。
この記事で、まず不明確なのは、この話を誰が語ったのか、ということである。登場する人物は、男、男の妻、男の子供、男の母、男の妹である。このうち、男、男の母、男の妹は死亡している。生きているのは、男の妻と男の子供だけである。ここで、男の母のホテルに妻が一人で来たということから、子供は一人でホテルにいられる程度の年齢ではあるものの、そこまで大きな子ではないことが推測される。したがって、話せるとしたら男の妻だけである。だが、男の妻は、どうやって男の母と妹が夜、「槌でなぐり殺し」たと、犯行の方法まで知っているのだろうか。なぜ、母と妹がそれぞれどんなふうに死んだかを知っているのだろうか。また、もしも妻がぺらぺらと記事の内容を話したのだとしても、それが事実であるかどうかはわからない。仮に母や妹が自分の罪を吐露していたとしても、それすらも事実かはわからず、伝聞の伝聞を記事にしたということになり、やはり信憑性は著しく低い。
また、たとえ25年という長い歳月が経っていたとしても、母が自分の息子にまったく気づかない、ということがあるだろうか。男は「金を儲けよう」と思って家を出たのだから、それなりの年齢までは家にいたのだろう。「金を儲けよう」と思い、家を出て仕事を探すという選択ができるためには、相応の判断力が必要である。幼い子供にはできない。つまり男はある程度の年齢になってから、家を出たことになる。その男の面影が、25年経ってまったくなくなっているということは考えにくい。
また、夜、母と妹で男を「槌でなぐり殺し、金を盗み、死体を河へ捨てた」とあるが、そんなことが女二人に可能だろうか。しかも、母はおそらくもう高齢であったことだろう。大人の男性を、槌でなぐり殺すまでには、どのくらい槌を振り下ろす必要があるだろうか。その間、男は一切の反撃をしなかったのだろうか。また、二人だけで男を河に捨てになどいけるだろうか。ほとんど不可能である。
さらに言えば、男は何のために母と妹が経営するホテルに行ったのか。「母と妹を驚かせ」るためである。ではいつ驚かせるつもりだったのか。男はすでに金持ちになっていたのだから、ホテルの部屋を借りようと、金を見せびらかしたときに、自分の正体を明かせば、母や妹は驚いたことだろう。「母と妹を驚かせ」るためにホテルに行ったとき、彼は部屋を借りる気はなかった。「思いつきの冗談」だった。にもかかわらず、しっかりと宿泊し、しかも自身の正体を明かすことなく妻子を別のホテルに泊めたまま、ぐっすりと眠ってしまうということがあり得るのだろうか。少なくとも、この男の行動には、一貫性がないと言えよう。
金持ちの男が、自分の身分がわかるようなものを一切持ち歩いていなかったというのも妙である。もしも母や妹がほんとうに彼のことをわからなかったとして、では彼はどうやって自分が彼女たちの家族であることを証明するつもりだったのか。なにかそれを証明できるものを持っていてしかるべきではないか。にも関わらず、死んだ後、おそらく金目のものを盗もうと男の荷物などを漁ったはずの母や妹は、男の正体に気づかなかった。
金を儲け、金持ちになったはずの男が、そんなに思慮浅いとは思えない。
以上の理由から、この記事は信用できない。
立論
新聞は、人々にできるだけ正しい情報を与えることを目的としているはずである。誤情報を流したとあっては、新聞の評判を損ねかねない。評判が落ちれば、その新聞は購読されなくなる可能性がある。新聞は、まず何よりもその記事の信憑性が重要なのである。したがって、新聞の記事に書かれていることは、ある程度裏が取れた情報であると言える。
記事の内容は次のようなものである。
一人の男が金を儲けようと家を出て、25年後に、金持ちになって妻と一人の子供を連れて地元に帰ってきた。男は母と妹を驚かせようと、二人が経営するホテルとは別のホテルに妻子を泊め、ひとりで母たちが経営するホテルに行った。しかし男が自分の息子だと母は気づかなかった。思いつきの冗談で、「部屋を借りよう」と金を見せた。夜になって、母と妹は金ほしさに男を槌でなぐり殺し、金を盗み、死体を河へ捨てた。朝になって、男の妻が来て、昨晩の悲劇も知らずに、男の身元を明かした。それを聞いた男の母は首をつり、妹は井戸へと身を投げたということである。
カミュが書いているように、「一面ありそうもない話だったが、他面、ごく当たり前な話でも」ある。ありそうもないように見えて、あり得る話なのである。
まず、それぞれの人物の行動と心理が明確である。男は驚かせるために、わざわざ妻子を別のホテルに泊める。これはおそらく、母や妹に自分の帰宅を知らせ、ゆっくりと語り会いたいと考えていたからだろう。また、母や妹が男を殺害した動機も明確である。金ほしさだ。
また、25年もの歳月が経って、家族が気づかない、ということはあり得ることだろう。四半世紀が経過して、変わらないものなどない。それは男の表情や仕草、声色も同様である。男は金持ちになるために、さまざまな苦労をしたことだろう。人に騙されたり、またあるときには人を騙したりすることもあったに違いない。そんな波瀾万丈の人生を歩んでいく中で、男の人相がまったく違ったものになっていることは、あり得る話である。
女二人で大の男を殺すことはできない、と言う人もいるかもしれない。確かに、素手で殺すのは難しいだろう。しかし母と妹は、道具を使っているのである。「槌」を使っているのである。まず一撃、眠っている男の頭部を殴る。すると男は気絶するだろう。一撃で難しくても、男はすぐに反応できないだろうから、執拗に頭を狙えば、意識がなくなるまでに時間はそうかからない。その上で、何度も殴ったなら、女二人でも殺すことは可能だろう。
また、河に捨てたという話だって、そう難しいことではない。ホテルを経営しているのだから、荷車やそれに代わる台車などがあったことは想像に難くない。力がいるのは、車に載せるときと、河に捨てるときだけである。この2回、男一人を女二人がかりで行うことは不可能ではない。
さらに言えば、男が「母と妹を驚かせ」るためにホテルに行って、すぐに気づかれなかったとき、自分の正体を明かすことを宙づりにして引き延ばすことは、「驚かせ」るという目的に適った態度である。まったく気づかず、一晩泊めた客が、朝、ホテルを出る段になって急に「実は私はあなたの息子ですよ、お母さん」と言われたらどうだろうか。金を見せてすぐに正体を明かすのとは比べものにならないくらい、母や妹は驚いたことだろう。男はおそらく、入念に、どのタイミングで自分の正体を明かそうかと考えて眠りについたことだろう。
金持ちの男が殺されて、荷物を漁られたときに母や妹が正体に気づかなかったことを不信に思うかもしれない。しかし、自分が家族であることを証明するためには、物で証明するよりも、情報で証明した方が、信憑性は高い。家族しかしらない情報は、誰かに譲ってもらったかもしれない物よりも信憑性が高い。何か質問されたときに、男しか知らないはずの情報をすらすらと述べた方が、母や妹は男の言葉を信じるだろう。
書いてみての感想とか
うむ。
すごい疲れた。
でもやっているうちに、なんとなくコツがつかめてきたというか、こういうの、論文書くときに、役立ちそうですね。
反論を想定して、立論をするときに、反論を項目ごとに考えることで、その再反論がしやすい、というのはかなり面白い発見でした。ざっくり反論を考えよ、と言われるよりも、ぜったいにいいよね、これ。
先に立証責任を持つのは反論する側であり、立論する側は反論されて初めてそれに反論することができる。[立論]は、この記事が疑われているという前提でしか書けない。そのため[立論]では、スムーズに展開させるためのつなぎの言葉があった方がよい
(p.141)
議論の番の話。ターンテイキングですね。
こういうの、きちんと指導してほしいし指導したいところ。自分が番をいつとるのかは、議論をするうえでは極めて重要なのです。
ちなみに「つなぎの言葉」というのは、ぼくの文だとこれですね。
したがって、新聞の記事に書かれていることは、ある程度裏が取れた情報であると言える。
こういうのはもう、なんか感覚で入れちゃってたけど、きちんと入れるべき理由を説明できないといけないなあ、と。
今回の「反論と立論」の課程は、わりと授業化しやすそう。個人でではなく、クラスやグループで、ひとつの反論を作らせて、そのあと、再び立論を作らせる、とか面白そう。役割分担とかして。
みたいなことも考え始めたので、今度は
高等学校国語科でのプロギュムナスマタの授業構想
についてのシリーズを書けたらいいなあ。
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