香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読む(3)「物語」【読書実況】

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香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読んでるよ!

『レトリック式作文練習法』を読むの(1)のアイキャッチ画像です香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読む(1)「序論」【読書実況】 香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読む(2)の記事のアイキャッチ画像です香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読む(2)「寓話」【読書実況】

今回は、「Ⅱ 物語」を読んでいきます。もちろん作文もあるよ!

目次とかは、こちらの明治図書出版のウェブサイトをご覧ください

理論編

ここで扱う「物語」とは、「あえて言えばディスコース(discourse)としての物語である。つまり、何らかの出来事を、時間的つながりによって一まとまりに叙述したもののことだ

(p.51)

したがって、いわゆる物語を創作するような話ではなく、できごとの筋を書いてく、みたいなことが想定されているっぽい。

この章難しそうだなあ、と思うのは、こういう記述からですね。

寓話のような既成の素材集があるわけではないので、自分で適当な話を選び出し、文脈に従ってまとめなければならない。物語の訓練は、その分だけ寓話のそれよりも難易度が高くなる

(p.53)

確かに「寓話」の場合は、もう筋ができていて、それを短くまとめていくっていう作業だったけど、今回のは必ずしも筋が明白ではない出来事について、自分で筋をつくっていかないといけないんですよねえ。これまじでムズいっす。

「すべらない話」とか見てても、例えば頭括型のうまいケンドー・コバヤシみたいなタイプもいるけど、基本的には頭括型とか尾括型とかという以前に、出来事の叙述の仕方がうまい人が話が面白いんですよね。構成っていうか。それ、自分でやっていかないといけない。むずいね。

要するに「寓話」だったのが、出来事一般に拡張されているわけで、「寓話」ならすでに整っているけど、出来事を整えた形で叙述するわけですね。基本姿勢は、「寓話」のときと変わらない感じ。例示の一種。

ところでそれって単なる「書き換え練習」じゃん、みたいな批判はあって、キケロとかがあげられる。簡単に言うと批判の肝は、その課題に書き換えることの必要性がきちんと担保されているかってことですよ、と。

物語を書き換えるのは、書き換える必要があるからそうするのである。その必要は、その物語が組み込まれるべき文脈の要求によって生じる

(p.58)

だからこそ、「寓話」のときにも、ざっくりと抽象的な問題(「〇〇問題」みたいなの)を論じる場合には、「寓話」とか意味ないぜ、みたいな話になってたわけですね。具体的文脈がないとだめよ、と。

じゃあ「物語」の練習をさせるときにも、具体的な文脈をある程度与えて練習させないとだめよ、と。このへん、宇佐美寛氏の、論理的な思考は具体的なコミュニケーションの場でしか鍛えられないよ、って話に近い。実際そういうことも書いてある。

言語学習において、常に具体的な場(文脈)を設定しようとすることは、時として訓練の効率をはなはだしく損ねることになるが、われわれは現実には必ず何がしかの文脈の中でものを書くのであるから、無理のない程度に現実に近いかたちの活動をさせた方がよい

(p.60)

個人的に、こういう、「具体的な場」を模擬的にでも作ろうっていう方向性にはものすごく賛同するんだけど、パフォーマンス課題みたいなのにはあんまり乗れないのはなんでなんだろうな。模擬的な状況に乗れないってのが大きい気がするなあ。

でも「具体的な場」をつくるっていうのは、例えば『第三項理論が拓く文学研究/文学教育』の「総論」で、難波博孝氏がその授業構想の「第0次」に、教材を〈言論の場〉に戻す(要するに再文脈化する)ってのも、ひとつの方法なのかもしれない、とか思いました。

実践編

練習課題例1

柳田國男『妖怪談義』に取り上げられた2つの昔話のエピソードを、藤原正彦『若き数学者のアメリカ』における「推薦書」についての文脈に合わせて書き直す。

受講生には、この二つの原話を参考にして自分なりの「己が命の早使い」を作らせ、それを譬え話のようにして、藤原氏が紹介しているアメリカの若手研究者と頼りにならない推薦状の話に組み込ませる。藤原氏の話は適当に脚色してもよい

(p.64)

これむっずいいいいいいいい!

実際に課題の解答を書いてみた

アメリカで、大学院を卒業したてのPh. D.たちは、ほとんど実績もコネもないため、自分の教授の推薦状だけが就職の頼りの綱である。

 

しかし、この推薦書は、日本の、基本的には良いことしか書かれない推薦書とはちがう。アメリカでの推薦書は、その学生にとって必ずしも良いものとは限らない。なぜなら、推薦者の教授自身の立場を危うくする可能性もあるからだ。いい加減なことを書いて、そのPh. D.が採用されたとする。実力がはっきりとわかる世界であるから、遅かれ早かれ馬脚が現れるだろう。そうなると、以後、その教授の推薦書はもちろん、最悪の場合には教授自身の信用も落ちてしまいかねない。

 

そのために、推薦書には率直な評価が書かれるのである。それが良いものか、悪いものかはわからない。しかし頼りにするものが推薦書しかないPh. D.たちは、その推薦書を信じるほかない。

 

こんな昔話がある。

 

ある男が歩いていると、非常にきれいな女性が不意に現れて、「この手紙をある人に届けてほしい」と頼まれた。男はいいやつだったので、快く引き受け、だいじにだいじに、手紙を運んでいた。と、途中で好奇心が抑えきれなくなり、中身を見てみたくなった。中を開いてみると、そこには「この男を殺すように」とある。驚いた男は、筆跡をまねて「この男を決して殺してはならぬ。手厚くもてなすように」と書き直した。さて、届け先につくと、またも非常にきれいな女が立っていた。男が手紙を渡すと、女はすぐに中身をみて、にっこりと微笑みながら、彼に小さな石臼をくれた。石臼を1回ひけば、中から小判が出てきた。

 

アメリカでの推薦書は、この昔話に出てくる手紙のようなものである。Ph. D.たちは、推薦書の中身を知らない。しかしその推薦書に、自分にとって良いことばかりが書いてあるとは限らないし、むしろ悪いことが書いてある可能性も大いにある。

 

この昔話では、男は殺されなかった。手紙を開けたからだ。しかしPh. D.たちは、中身を確認できない。「手厚くもてなすように」と書いてあることを信じて、殺されないように祈るしかないのである。「この男を殺すように」と書いてあることもあるのである。実際、知人であるAは、けっきょく、希望していた大学での採用はなく、現在、聞いたことのない地方大学で教えている。

書いてみての感想とか

これむっずい。そもそもの昔話がむっずい。そしてこれをうまく文脈に入れ込むのむっずい。

「受講者の作品」がけっこううまい。しかし相変わらず、講評は鋭い。きびしい。

手紙の内容によって自らの運命の明暗が分かれるということを示すのであれば、昔話の組み込み前のアメリカの推薦状事情のところでも、もっと具体的に書くべきである。アメリカの「推薦状は、日本的な推薦状ではな」いとするならば、具体的にどこがどう異なるのか、「推薦」といっても当人を否定するよな内容のこともあるという事例を具体的に書かなければならない

(p.68)

セーフ。でもこういうの、けっこう感覚で入れたよなあ。

練習課題例2

何らかの主張の導入となる物語を、日常的な体験から作る練習をする。物語の素材となる体験は、誰の体験でもよく、また、実話でなくてもかまわない。(…)物語につながる主張は、論として展開する必要はなく、例文のようにとば口まで示せばよい

(p.70)

いやいやいやいや。これもだいぶむずいで。

とりあえず主張を考えてから、エピソードを考えた方がよいよね、こういうタイプの課題は。

まあ、この主張は「論として展開する必要はな」いから、エピソードから無理やりなにか主張っぽいものを作り出してもいい気はするけど。でも実際には言いたいことがあって、素材を探すことの方が多い、のか? いやそれも微妙かもしれないですね。

ま、なんにせよ、解答を作ってみましょう。

実際に課題の解答を書いてみた

最初の授業では、あえて厳しいことを言う。例えば、授業は生徒ががんばるべきものであるから、みなさんががんばらなければ意味はない、とか、ぼくはみなさんの考えとか疑問とかを整理したり、答えたりすることはできるけれど、みなさんが疑問を持ったり、考えを書いたりしてくれないと、授業は進まない、とか、ぼくは丁寧に授業はしない、自分で勉強してください、とかである。そうすると、ぼくのことを嫌う生徒というのが年度初め多くなる。

 

先日親しげに話しかけてきた生徒とは次のような会話をした。

 

「私すごい先生のこと嫌いだったんですよね。ほんと最初の頃は何この先生とか思ってた」

 

「そうなんだ。なにが?」

 

「だって、お前らががんばるんだとか、あんまりちゃんと教えないとか、そういうこと言ってたから」

 

「ああ」

 

「でも今はすごい好き。いちばんかも。考えてもわからなくて聞いたこととか、出し惜しみせず教えてくれるし、優しいし」

 

この生徒は、最初の頃はほんとうに授業態度が悪かった。いやいや授業を受けているようであった。しかし、今ではたいへん積極的に授業に参加している。ぼくは姿勢を変えていない。最初言ったことを一貫して実践しているだけである。

 

一般に、最初の印象はだいじである。第一印象が、その人の良し悪しを決める。そして、教員への好悪の感情は、そのまま教科や科目への好悪とつながりやすいというのもまた事実である。だが、重要なのは、最初甘くして気に入られようとすることではない。そうではなくて、一貫した姿勢を見せ、ブラさないことが重要なのである。態度が一貫しているのを見せれば、生徒の信頼を得ることができる。

書いてみての感想とか

うん。ぜんぜん、なんか、よくない気がする。

なんだろうなあ、なんかナットクいかない出来ですね。うまくない。

講評を見てみる。

体験の一部始終を語ることに集中してしまい、エピソードがやたら長く複雑になってしまった受講生が少なからずいた。この場合のエピソードとは、〔…〕主張することが明確であり、それを暗示させるエピソードでなくてはならない。」

(p.72)

 

エピソードは何も事実に忠実である必要はない。あくまで主張のための導入として機能すればそれで十分である。

(p.72)

これは、どうなのだろうか? クリアしている? か?

時間的展開のあるエピソードの方がよい。〔…〕ここでの「物語る」とは、説明したり描写したりすることではない、時系列的に事態が展開していく様子を適切にまとめることである。

(p.72-73)

これ難しかった。

ぼくの場合は、後日生徒自身が「物語る」ような体裁をとることで、時間的な展開を無理にでも入れようとしているけれど、うまくいったのかはわからない(たぶんあまりうまくいっていない)。

ではどういうふうに変えるか。

もう少し客観的に観測できる立場に視点をずらしてみるとかかな。別に自分のこととして語る必要はなかったわけだし。

つまり同僚の先生に対する生徒の評価が変化していく、みたいな「物語」り方の方が、課題の要求にはあっていたのかもしれないなあ。

まあ、なんにせよ、今回も難しかったです。みなさんもぜひ買って、やってみてください。

つづく!

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