香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読む(2)「寓話」【読書実況】

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香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読んでるよ!

前回から、『レトリック式作文練習法』を読んでいます。

『レトリック式作文練習法』を読むの(1)のアイキャッチ画像です香西秀信・中嶋香緒里『レトリック式作文練習法』を読む(1)「序論」【読書実況】

つづき。今回は「Ⅰ 寓話」です。

練習課題もあって、ひいひい言いながら読んでます。

目次とかは、こちらの明治図書出版のウェブサイトをご覧ください

理論編

プロギュムナスマタの訓練は、まず寓話(…)より始まる

(p.19)

でも「寓話」って、幼稚じゃない、みたいな話への応答。アリストテレスの『弁論術』を参照しつつ、レトリックの目指すものと、寓話の機能を説明する。

マンフレート・クラオスが引用され、説明される「レトリックの目指すのは、厳密な学問的証明を提供することではなく、議論によって相手を説得することにある」(p.23、孫引きっす)っていう認識は、例えば議論の手法について書かれた『The Rhetoric』とかにも共通しているレトリックについての初歩的な認識ですよね。

アリストテレスの言う「例証」の方法で、それには大きくわけて3つあって、「過去の事実を語ること」、「比喩的説明」、「寓話」なんだと。要するに、わかりやすく説明する技術として、「寓話」を採用する手法を学べ、って話ですね。

このへんは、漢文とか説話でよくあるタイプのレトリックだなあ、と思いながら読んでる。

「王様、ところでこんな話があります。(話の内容)。で、王様が今やってることは、やべえんじゃないっすかね」みたいな話型ですね。この間の話をうまく使えるようになれよ、ってのが「寓話」の訓練ってことですね。

「寓話」の再話、

この繰り返しによって、彼らは、その時々の文脈の要求に応じて、寓話を自由自在に利用できる技術を身につけた

(p.27)

っての、面白いなあ。

公開研究授業とかで、漢文の授業とか見に行ったときに、「〇〇は自分の主張を説得的にするために、どんな工夫をしているか」みたいな発問をして、生徒に考えさせる授業、いくつか見たことがあるけど、それを実際にやってみさせる、っていうことですね。

「寓話」ってのは、わかりやすいから、こういう指導にはいいんだろうなあ、と。

でもわかりやすいだけに、粗はけっこうある。そういう粗について具体的に掘り下げていく作業は、今後やっていくのだろうか、とか思いました。

けどとりあえずこういうレトリックを使えるようになるってのは、たぶんビジネススキル的に重要だよなあ。会議とか。そうでもないかな。まあ会議で「寓話」とか入れてこられたら困惑するか。

これはまた、例証に限らず、自分の文章に他者の言説を組み入れて書くという、より一般的な言語技術の訓練にもなっている

(p.27)

というのを、そのまま、うんその通りだ! とはなんかちょっとひっかかって言えないけど、でもこういった効果があり、その練習に「寓話」はもってこいだ、というのは具体的でいいよね。

実際、「他者の言説」を自分の主張にどういうふうに組み込んでいくか、というのは、論文を書くときも、議論をするときも、会議で何かを決めるときも、かなーりだいじ。

実践編

練習課題例1

すでに寓話が組み込まれている文章を利用し、

この寓話の内容を、それを読んだことがない人にもその大概が理解できるようにまとめ、文章の中に組み込む

(p.31)

という課題です。

課題文は鈴木孝夫『日本人はなぜ英語ができないか』。言及されている寓話は「ロバを売りにいく親子の悲劇」だが、鈴木氏の文中にはこの寓話の内容は説明されていない。こういう問題面白い。実際にやってみる。

なお、寓話を使った文章をつくるときに、「頭括型」と「尾括型」、あとものすごーくふわっと「双括型」についての話があって、長い寓話を使ったときには「頭括型」だと収まりが悪くなることがあるので、結果的に「双括型」っぽくなること多いよ、って指摘があります。とりあえずどっちも書いてみよう。

実際に課題の解答を書いてみた

頭括型

超大国になった日本は、ほかのすべての国に気に入られることは不可能である。日本をとりまく国際環境は複雑化している。各国の利害は対立している場合も多い。そんななか、日本として、自分の考えを持たずに、ほかの国すべてに気に入られようとして各国の意見を聞いていては、けっきょく失敗してしまうだろう。それはまさしく、イソップ寓話の「ロバを売りに行く親子の悲劇」そのものだ。

 

ある男とその息子が、市場へロバを売りに行く。その道中、出会う人にいちいち文句を言われる。曰く、「どっちか一人でもロバに乗っていけばいいのに」「若い者が乗って年長者を歩かせるなよ」「若い者を歩かせて、偉そうに年長者がロバに乗ってるんじゃねえよ」「ロバに二人でのって、ほんとロバ、かわいそう」。そのひとつひとつにいちいち男は頷き、息子をロバに乗せたり、自分がロバに乗ったり、あるいは二人で乗ったりする。しかし最後に、「ロバ、かわいそう」と言われたので、二人でロバを担いでいたら、みんなに「ロバを歩かせればいいのにわざわざ担いでいくなんでバカじゃん」と言われ、けっきょくどうすればいいのかわからなくなった男は、ロバを川に捨ててしまう、という話である。

尾括型

イソップ寓話に、こんな話がある。

 

ある男が息子と、市場へロバを売りに行った。その道中、出会う人にいちいち文句を言われる。例えば「どっちか一人でもロバに乗っていけばいいのに」。その言葉に、確かに、と頷いた男は、息子をロバに乗せる。すると今度は、「若い者が乗って年長者を歩かせるなよ」と言われ、確かに、と男は息子をロバから降ろし、自分が乗る。その後も、「若い者を歩かせて、偉そうに年長者がロバに乗ってるんじゃねえよ」「ロバに二人でのって、ほんとロバ、かわいそう」などと言われ、そのひとつひとつにいちいち男は頷き、二人で乗ったり、二人でロバを担いだりする。そうして、ロバを二人で担いでいると、道行く人たちに「ロバを歩かせればいいのにわざわざ担いでいくなんでバカじゃん」と言われ、けっきょくどうすればいいのかわからなくなった男は憤慨し、ロバを川に捨ててしまう。

 

いま日本がやっていることはこれと同じである。国際関係は複雑化し、各国が自国の利益を優先しつつ、それぞれの主張をしている。その主張は、しばしば対立する。そんななかで、日本だけがすべての意見を聞き、すべての国に気に入られようとしていては、「ロバ売りの親子」のように、失敗してしまうだろう。そうならないためにも、「日本は日本だ、それでどうした」という日本独自の考えをしっかり持つことが重要である。

書いてみての感想とか

うん。頭括型だと確かに収まりが悪いな。なんていうか、リーダーフレンドリーではないですよねえ。

読者としては、「で?」ってなるはずで、そこを語らずに「いやもうわかるじゃんこれ。最初に言いたいこと言ってるし」みたいな感じになっては、レトリックの目指す目的から外れちゃうよね。

しかしこれ、けっこうつらい

「受講生の作品」として、例があがっていて、つーか「受講生の作品」レベル高いっす。

この課題は、

  1. 元の鈴木氏の文章で言いたいことを把握して、
  2. 言及されている寓話を読み、
  3. 寓話をうまく要約して、
  4. もとの文章の中にいい感じに組み込む

という4つの段階があるんですね。

で、①はまあ、授業者の方でうまく誘導するっていうか、こういうことが言いたいわけです、みたいに説明してしまってもいいのかな。

②→③の流れは、時数指定とかをして、寓話をうまくまとめて説明する力がいるよね。要するに再話

これはあれかもなあ、口頭で説明させてから、文章にした方がいいのかもしれないなあ。

③でできた要約文を、クラスで共有するってのもいいかもしれないですね。で、前後の文章と分量や文体、情報量などでもっともよさそうな要約を使う、みたいな。

再話させるときにも、お手本の作文を用意する、みたいな実践があったと思うので、そういった手立てがあれば、けっこうおもしろくできそうではある。やってみたら、ぼくの主張ではないけれども、なんかやってやった感があって、ちょっと気持ちいい。

ちなみに④について、「受講生の作品」のあとの講評(?)にこんなふうに書いてある。

元々異なる文脈の話を組み込むのであるから、それが何を意図したものであるかが明確になるよう言葉を補わなければ、不自然な文章になってしまう

(p.37)

これけっこう難しいですよね。よっぽど意識的に組み込まないといけない。逆に言うと、そんだけ意識してやらないといけないからこそ、良質な「訓練」になるんだってことですね。

練習課題例2

無住『沙石集』の「学生の畜類に生まれたる事」を寓話として使う。

説話も寓話と同じく、何らかの教訓を与えるための譬え話であるが、寓話よりも長いので、主張の展開に必要な程度に短くまとめなければならない

(p.38)

というのは面白い指摘。確かに説話は設定とかの説明が長いんかもなあ。イソップ寓話とか、設定はあっさりよね。

さて、課題はこちら。

受講生にこの話を与えた後、次のような課題を出す。「最近、国語科でもディベート教育が盛んになってきているが、そうした傾向に批判的な、あるいは懐疑的な教師もいる。自らをそのような教師に擬し、この説話を使って、ディベート教育に対する批判、揶揄、嫌味等を、頭括型と尾括型の二通りで書け

(p.39)

実際に課題の解答を書いてみた

頭括型
ディベート教育は、だめである。なぜだめか。口ばかりうまくなって、学問を修める態度も能力もない人間を作り出してしまうからだ。

 

ディベートは次のようなルールのゲームである。ある命題について、賛成派と反対派に分かれる。例えば、「日本は積極的に、外国人労働者を受け入れるべきである」という命題に対して、「受け入れよ」という側と、「受け入れるな」という側に分かれて議論する。議論はこの命題に関する思考を深めるというよりも、どちらの方がよりもっともらしいか、説得力があるかを競い、最後には第三者がどちらが説得的だったかを判断する。要するに、口がうまければいいのである。しかしこれは学問的な態度とは何の関係もないし、むしろ害悪ですらある。

 

『沙石集』にこんな話がある。

 

比叡山で修行していた学僧が二人いた。その二人はぜんぶやることなすこと同じだったので、たぶん、死後転生するのも同じだろうと考え、どちらかが先に死んだら、必ずその転生先を伝える約束をする。しかして、一人がなくなり、もう一人の夢に出てきて言うことには、「野槌に生まれ変わった」、と。「野槌」とは、手も足も目鼻もなく、ただ口だけがあって、人を食う化物だ。これは仏法を利のためにだけ学んで、議論の勝敗を争い、他人に勝とうという気持ちで学問した結果だ、と語り手はまとめている。

 

学問は競争ではない。勝負ではないのである。勝負を前面に出し、口先だけで議論するディベート教育は、やはりだめなのだ。

尾括型

比叡山で修行する、年齢や見た目、振る舞いなども、ほとんどそっくりな二人の学僧がいた。何についても同じだったから、二人は約束した。「たぶんぼくたちは同じようなことをしているから、きっと来世の転生先も、同じだろう。だから先に死んだら、きっと、その転生先を相手に伝えることにしよう」。さて、一人が死に、約束通りもう一人の夢の中に出てきて言った。「おれは野槌に生まれ変わった」。「野槌」とは、「獣(けだもの)」である。「形は大(おおき)にして、目鼻手足もなくて、ただ口ばかりある物の、人を取りて食ふといへり」。

 

これは、仏教についての勉強を、自分の実利のためにして、基本的には議論の勝敗を争って、他人に勝とうとする気持ちで学問をするからこうなったのだ。口ばかり達者で、あとはなにもできない化物になったのだ、と語り手はまとめている。

 

さて同じことが、ディベート教育において起こってはいないか。

 

ディベートは次のようなルールのゲームである。ある命題について、賛成派と反対派に分かれる。例えば、「日本は積極的に、外国人労働者を受け入れるべきである」という命題に対して、「受け入れよ」という側と、「受け入れるな」という側に分かれて議論する。

 

議論はこの命題に関する思考を深めるというよりも、どちらの方がよりもっともらしいか、説得力があるかを競い、最後には第三者がどちらが説得的だったかを判断する。要するに、口がうまければいいのである。しかしこれは学問的な態度とは何の関係もないし、むしろ害悪ですらある。

 

要するに、口だけが達者で、正しく学問も修めず、知恵もないような化物を生み出している。こんな教育を続けていてはならない。教育は「人格の完成」を目的としているのである。目的をはき違えてはならない。

書いてみての感想とか

頭括型はやっぱり双括型っぽくなるなあ。じゃないとしっくりこないというか、なんか書いていて気持ち悪さが残る

尾括型は、具体的なものから始まっているため、いい感じなのかもしれないですね。

というか、こういうふうに両方で書かせてみて、どちらの方が自分は使いやすいかとか、伝えたいことを伝えるのに適しているかとかを考えさせる必要、あるのかもしれないですね。

ところでぼくは論文指導を受けてたときに、論文の書き出しにはまあいくつか方法があって、

  1. 論争的な書き出し
  2. 具体例からの書き出す
  3. 一般的な理解(常識的な考え)から書き出す

といったことを意識させられた。

ぼくは基本的には②が使いやすかったので②を使っていて、たまに①って感じだったんですね。③はなんか、おっきい話しすぎる感じがしてあんまり好きじゃなかった。そういう好みの問題みたいなのも、こうして書いてみるとわかるのかもしれない。

結論から書け、という指導は、それはそれで必要で、とくに「話す」という文脈においては超重要だと思うのだけれど、レトリックの問題からすれば、時と場合に応じて使い分けられることの方が重要ですよね。

結論から書くことで、効果的ではない場合、というのもあるし、結論から書け指導の結果、こじんまりとした作文ができてくることもあるだろう。

ちなみに講評部分を読むと、自分の書いたものを反省する。以下、関連する引用。

寓話を短縮するためにはある程度の情報を省略せざるを得ないが、寓意に直接かかわる情報は必ず残さなければならない

(p.42)

 

ディベートがもたらす子どもたちへの悪影響は具体的に書いているのだから、それに対立するものとして「子どもたちの心を育てること」も、その中身を同程度に具体的に説明しなければならない。そうでなければ、自分の気に食わないものを否定するのに、「口先だけの」スローガンを持ち出してきただけと言われても仕方がないだろう

(pp.42-43)

こういうふうに、自分が振った刀で斬られる可能性もある。気を付けたいですね。

練習問題例3

三回目は、さらに難易度を上げる。ここでは寓話だけを示し、主張の部分は受講生が自分で拵えなければならない

(p.43)

ふむ。主張を、というか議論の方向を決めてあげる方が、指導しやすい(評価しやすい)というのはあると思うけど、書く側にとっても、書きやすい、というのがあるってことでしょうね。

さて課題はイソップ寓話から。「盗みをする子と母親」という話。

この寓話から教訓を読み取り、で、その教訓を活かすことのできる文脈を設定して、主張を考える、ってことね。そりゃ難易度高いわ。がんばる。

今回の課題では、受講生は虚構の状況を自由に案出し、この寓話を援用して、ある判断を正当化するための短い意見文を頭括・尾括の二つの型で書く

(p.44)

実際に課題の解答を書いてみた

頭括型
なにごとも最初が肝心、というが、授業においてもそうである。年度初めこそ、しっかりと規律を確立しなければならない。

 

よく、6月ごろになって、こんなふうな話を耳にする。「最初の頃はそんなに大変じゃなかったんだけど、最近生徒がぜんぜん言うこと聞かなくて。私語もすごいし、ぜんぜん話も聞かないし、どうすればいいんだ」。しかしその現象は、「最近」はじまったことではないはずだ。その芽は、4月段階から出ていたのである。年度初めの段階から、「私語」や「話を聞かない」といった授業態度につながる小さな問題行動があったはずなのである。だからその時点で、それらの問題行動を断固として許さず、言葉は悪いかもしれないが〈潰す〉べきだったのだ。

 

イソップ寓話にこんな話がある。

 

ある子供が、友達の書板を盗んで帰ってきた。それを知った母親は、ふつうだったら叱るところを、ぜんぜん叱らず、むしろ褒めた。今度その子供が服を盗んできたときも、叱らず、前にもまして褒めた。そうこうしているうちにその子供は大きくなったが、同時にもっと大きな盗みもするようになった。あるとき、現行犯で逮捕され、処刑場に連れていかれた。そのとき、母を罵倒して言った。「はじめて書板を盗んで渡したあの時、もし打ちすえてくれていたら、捕まって死刑になるまでのことにはならなかっただろうに」、と。

 

最初が肝心なのだ。最初にこれくらいはよいだろうと許してしまってはいけない。その小さな芽は、すぐに大きくなっていくのである。大きくなった時にはもう遅い。とにかく早く、初めに阻止することがだいじだ。

尾括型
イソップ寓話に、ある子供とその母親の話がある。

 

子供が、小さな盗みを働いた。母はそれを知って、当然叱るべきところを、叱らず褒めた。次に子供は、前回よりも大きな盗みを働いた。母は相変わらず叱らず、前回よりももっと褒めた。さて、子供が青年になるころには、彼のする盗みの規模はかなり大きくなっていた。あるとき、ついに彼は捕まり、死刑となった。その処刑場に連れていかれるとき、彼は母親を罵倒した。「なんで最初の時に、ちゃんと叱ってくれなかったんだ!」と。

 

なにごとも初めが肝心だ、という話である。そしてこれは授業規律においても同様である。年度初めの授業がはじまったときにこそ、しっかりと規律を確立しなければならない。それがたとえ、どんなに些細な問題行動であっても、毅然として指導しなければならないのである。

 

よく、6月ごろになって、こんなふうな話を耳にする。「最初の頃はそんなに大変じゃなかったんだけど、最近生徒がぜんぜん言うこと聞かなくて。私語もすごいし、ぜんぜん話も聞かないし、どうすればいいんだ」。しかしその現象は、「最近」はじまったことではないはずだ。その芽は、4月段階から出ていたのである。年度初めの段階から、「私語」や「話を聞かない」といった授業態度につながる小さな問題行動があったはずなのである。だからその時点で、それらの問題行動を断固として許さず、言葉は悪いかもしれないが〈潰す〉べきだった。

 

最初が肝心なのだ。最初にこれくらいはよいだろうと許してしまってはいけない。その小さな芽は、すぐに大きくなっていくのである。大きくなった時にはもう遅い。とにかく早めに、初めに阻止することがだいじだ。

書いてみての感想とか

だいぶ疲れたので頭括型のを尾括型にコピペした。

でも要約のしかたも、いろいろ考えられて面白い。寓話をどういうふうに語るかは、わりと他の部分の文体や内容とすり合わせていく必要がありそうで、これはとっても「訓練」って感じでいいですね。

この課題はほんと難しい。講評が鋭く突き刺さってきます。

「いじめ問題」や「少年犯罪」などの社会問題の概略を説明し、寓意と結びつけ、「初期の対応が大切である。」と一般的な結論を述べる受講生もいるが、その場合は不可とする。ここでの課題は、特定の(虚構の)状況に対して自分なりの判断を下すことである。「〇〇問題」の解説なら、寓話を援用してまで何かを判断する必然性はない

(p.46)

 

寓話部分をみると、処刑場に向かう途中で息子が母親の耳を噛み切るという部分が省略されている。(…)この省略部分は、エスカレートする息子の所業の一端であり、また母子二人にとっての悲劇であることを示している

(p.47)

もっともです。母親も害を被る、というのがだいじですよねえ。「母子二人にとっての悲劇」っての、ちゃんと読めてなかったなあ。

ところで、この章のまとめ、ものすごくすっきりしていてかっこいい。こういうの、書けるようになりたいですね。

鳥は空を飛ぶ必要があったから、翼を持ったのではない。翼を持ったから、空を飛べるようになり、また飛ぶことが必要になったのだ。同様に、寓話を組み込む技術をもった人間だけが、ある文脈で、寓話を組み込んで語る必要を感じるのである。その技術をもたない者は、永遠に、それを「利用する必要も必然性も感じ」ないであろう

(p.48)

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