田村学『深い学び』を読む(1)【読書実況】

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この本まじで難しい

「深い学び」ってのが難しい、何が「深い」って言えるのかよくわかんない、という話を同僚から聞いて、たしかに、と思ったので、ぼくの観測する範囲で評判のいい田村学氏の『深い学び』を読み始めた。

田村氏は、新学習指導要領の改訂にがっつり関わっていた人なので、この人の考える「深い学び」ってのが、文科省が求めている「深い学び」とほぼほぼ同じなのではないかな、と。

で、読んでいたんだけど、これものすごくわかんなくて、難しいんですね。

まあ、そんなふうに思ってるのは、ぼくだけなのかもしれないけど、ほんと読んでて読めてる気がしないので、読みながら考えたこととかを書いていきたい。メモですね。とりあえず1章まで読み終わったので。

序章

序章はなんていうか、かなり抽象的でわかりにくいのでざーっと読んで本論から読むことにしました。

ただ文末の表現が、「~べきである」のように、明らかな断定をしているものもあれば、「~たい」のように、主語が不明瞭な願望表現があって、読むのが難しい。例を挙げると、

  • 「資質・能力とは、それが発揮されている姿や状態が積み重ねられ、繰り返されることによって育成されると考えるべきであろう」(p.16)と、推量する形で終わった文の直後に「やはり、学習者中心で、能動的な学びこそが求められていると考えるべきである」(p.16)とかなり強い口調になったりしていて、ちょっと混乱する。
  • 「「主体的な学び」とは、学習者としての子供自身が自らの学びをコントロールできることと考えたい」(p.18)とかあって、だれがそうし「たい」のかがよくわからず混乱する。
  • 直後に「自分ごとの課題を、自分の力で解決し、その過程と成果を自覚する。これを繰り返すことで、子供は自分自身の力で学びをコントロールすることができるようになる」(pp.18-19)ってあって、これが理由づけになっているの、か? いやなってないか。どうやったら「自らの学びをコントロールすることができるようになる」かを説明しただけか。うーん。これ読みにくくないっすかね、こういう文章構造って。そしてこのことを「主体的な学び」だと考えるのは誰なのかがやはりわからずじまいではないかなあ、とか。

まあそんな感じでつまりまくって本論に入れないのもどうかと思うので、本論で具体的な記述を見ながら理解していこう、とか思ったんです。

第1章

とりあえず第1章は理論的な話ですね。

ざっくり言いたいことってのは、

  • 「深い学び」ってのは、知識が何かとつながるってこと
  • 何かとつながった知識ってのは、「駆動する知識」って言うことにするよ
  • 「駆動する知識」の総体が、「汎用的能力」って呼ばれるものだよ

って感じかな。たぶん最初のやつは、わりと学術的に議論されている「深い学び」と変わらない。

特にどういう研究を参考にしていたのか、直接引用とかがほしいところですね。一応、参考文献リストは最後についているけども。

以下、読書中のメモ。

「見方・考え方」について

それぞれの語の定義。

見方:どのように対象を捉えるか(対象を捉える視点)

考え方:どのように対象と関わり、どのように対象に迫るか(アプローチの仕方やプロセス)

各教科の特質に基づいて対象を捉え、認識したり、働きかけたりする、教科等に固有の学びの有り様

(p.34)

この辺は「見方・考え方」の話で、ここに至るまでの議論でも、あんまりすっとわからない部分もあるのだけど、まあ、わりとすっきり整理はされているように思えた。困ってくるのはこの後っす。

プロセス

おそらく「プロセス」を定義しているのは次の箇所。

「やってみたい」「してみたい」「できるようになりたい」といった思いや願い」(p.34)を「叶えるために具体的な活動や体験を行い、直接対象と関わる中で、感じたり考えたりしたことを表現したり、行為したりしていく過程

(pp.34-35)

とある。

日本語むずい。

「プロセス」とは「過程」のことである、というのはわかる(トートロジーだし)。どんな「過程」かというと、「表現したり、行為したりしていく過程」。つまり「プロセス」とは、「表現したり、行為したりしていく過程」だと考えられている

ってことは、学びの「プロセス」には、「表現」や「行為」が不可欠ですよってことですかね。でもこの「行為」というのが指す範囲はどれくらいなのだろうか。

関心や意欲があって、それを実現するために何かする、というのはここでいう「プロセス」とは違うっぽい。メタプロセスみたいな話っぽいんだよなあ。

例えば、公園に行って遊びたい、という思いがあったとして、そのために、じゃあ公園に行こうって公園に行くのは、「思いや願い」を「叶えるために具体的な活動や体験を行」うことに留まっているわけで、それでは「プロセス」とは言えない(ですよね?)。「直接対象と関わる中で」ってのが曲者で、要するに「直接対象と関わる」「過程」でってことでもいいのかしら。すると、その「過程」で「感じたり考えたりしたことを表現したり、行為したりしていく過程」が「プロセス」なのだから、やっぱり「プロセス」についての「プロセス」って話なのだろうか。

まあ、だとしたら、振り返りが「プロセス」ってことなのか? でもおそらく振り返りは学びの「プロセス」の中に入っているはずで……。うーん。わからん。

ちなみになんでこの「プロセス」って言葉にひっかかってるかというと、序章で「「深い学び」については、これまで以上に学びのプロセスを意識することが求められる」(p.23)とあって、たぶんすごくだいじな概念だからなんですけどね。

問題を解決するプロセス、解釈し考えを形成するプロセス、構想し創造するプロセスなど、教科等固有のプロセスが一層充実するようにしたい。なぜなら、学習のプロセスにおいては、それまでに学んだことや各教科等で身に付けた知識や技能を活用・発揮する場面が頻繁に生み出されるものとして期待できるからである。

(p.23)

まあ、ここにあるように、めっちゃ「プロセス」って概念を重視してるわけです。でもこの辺の記述と、「プロセス」を定義した先の引用部とを比較してみて、やっぱわかんねえなあとか思うんだけども。

あとは、先の「プロセス」の定義の直前には、「前述のとおり、「深い学び」は学習過程としてのプロセスが大切なポイントになる」(p.34)とあって、これもわからん。「前述」がどの部分を指すのかがわからん。一番近い「プロセス」という語は「考え方」についての説明で出てきているけど、そこでは「大切なポイント」とは言っていないので、やはり序章の記述なのだろうか。「学習過程としてのプロセス」ってあるけど、わざわざ「学習過程」と言わずに「プロセス」と言うのは、理由あってのことなんだよねえ。だからやっぱメタプロセスみたいな話? やばいループしてきた。

深い学び

各教科固有の学習過程(プロセス)の中で、それまでに身に付けていた知識や技能を存分に活用・発揮し、その結果、知識や技能が相互に関連付けられたり、組み合わされたりして、構造化したり、身体化したりしていくこと

(p. 36)

ここでは「学習過程(プロセス)」ってなってるなあ。

うーん、むずい。なにがむずいって、その直後にさらに「その結果」とあって混乱するからですね。引用します。

その結果、知識や技能はより深く理解されることに至り、異なる状況でも活用できるものとなり、好ましい方向に向けて安定的で持続的なものとして育成され確かになっていく

(p. 36)

要するに

学習過程の中で知識・技能を活用・発揮

→ 知識・技能が、①相互に関連付けられる、②組み合わされる

→ 知識・技能が、①構造化される、②身体化される

→ 知識・技能は、①より深く理解される、②異なる状況でも活用できるものになる、③好ましい方向に向けて安定的で持続的なものになる

ということ?

で、「知識や技能は」、と話しつつ、次の文では「具体的には、「資質・能力の三つの柱」に沿って、次のように考えることができる」(p. 36)とされる。このへんこんがらがる。上の文で言われている「知識や技能」と、「資質能力」の「知識・技能」は違うのか? うーむ。

たぶん、個別の情報としての「知識・技能」というものと、ネットワーク化された「知識・技能」というのが別々に考えられているんだろう、とは思うけど、それってほんと? みたいな疑問はある。そもそも知るってことは、既存の知識体系のなかに個々の知識が組み込まれることなんじゃないかなあ、とか。だとしたら個々の情報としての「知識・技能」ってどんな感じなのだ。それって習得できるようなものなのか?

ちなみにこのあとの整理では、

知識・技能:各教科等で習得する「知識・技能」が相互に関連付けられ、社会の中で働くものとして形成されること

思考力・判断力・表現力等:「知識・技能」が未知の状況において自在に活用できるようになること

学びに向かう力・人間性等:よりよい生活や社会の創造にむけて、適正かつ望ましい方向に「知識・技能」が活用できるようになること

がそれぞれの「資質・能力」における「深い学び」だとされる。

で、「知識・技能」の「駆動」って概念が導入される。

「知識・技能」が構造化されたり、身体化されたりして高度化し、(…)いつでもどこでも使いこなせるように動いている状態、つまり「駆動」しているような状態となるように身に付いていくことこそが重要

(p. 37)

知識・技能の構造化=「深い学び」?

「知識・技能」を「知識」とまとめて考えることにして、「知識」には2つある、という話。

宣言的な知識:「〇〇は△△である」みたいなの

手続き的な知識:行為などに関する知識、「やり方」に関する知識→「技能」はこれの集合体

で、これらそれぞれがつながるパターンが大きく4つ示されるんですね。

①宣言的な知識がつながるパターン

A:同じレベルの個別な知識同士がつながっていく

B:核となる知識に他の知識がつながっていく

②手続き的な知識がつながる

C:パターン化した一連の知識としてつながる

③知識と場面がつながる

D:今まで得てきた知識が別の場面・状況で使えることに気づく

④知識が目的・価値・手応えとつながる

E:(これちょっとまとめるの難しい。なんていうか、やってみたらよい結果になった!みたいな話、なのか?)

この時点でわりと頭がパンクしそうなんだけど、田村氏はここでさっきの「資質・能力」の話とつなげてくれるので、なんとかついていける。要するに、

①②が「知識・技能」に関する「深い学び」、③が「思考力・判断力・表現力等」に関する「深い学び」、④が「学びに向かう力・人間性等」に関する「深い学び」ってこと。

  • 知識と知識がつながった!ってのが「知識・技能」における「深い学び」
  • あっ、ここでもあの知識が使える!ってのが「思考力・判断力・表現力等」における「深い学び」
  • あの知識使ったら人の役に立った!とか嬉しかった!みたいなのが「学びに向かう力・人間性等」における「深い学び」

って感じで整理できる(のだと思う。かなり自信ない)。

ところでここで知識知識といっているのだけど、この知識には階層性があって、「構造化」されてより高次な知識(概念的な知識)、というのがあったりするので、そこには注意しないといけない。このあたりも、「知識」という語でいろんなレイヤーの話がされているので、慎重に読まないと迷子になりそう。(ただ、わりときちんとどのレイヤーの「知識」について話しているかは明示してくれていることが多いので、難しいけどついていくことはたぶんできる)

ほんで最後に、「まとめると」って感じですっきり次のようにまとめてくれています。

「『深い学び』とは、『知識・技能』が関連付いて構造化されたり身体化されたりして高度化し、駆動する状態に向かうこと」と言える

(p. 64)

とはいえ、「深い学び」が「駆動する状態に向かうこと」であるということは、「深い学び」とは学習過程それ自体のことであり、要するに「プロセス」のことであるように読める。のだが、先に引用したように「プロセス」とは「具体的な活動や体験を行い、直接対象と関わる中で、感じたり考えたりしたことを表現したり、行為したりしていく過程」なので、それと知識との概念関係がわからん気もする。

やっぱ「感じたり考えたりしたことを表現したり行為したり」することと、知識が何かとつながるってことの関連性がいまいちピンとこない

汎用的能力と「駆動する知識」の関係

ここも激むず。汎用的能力ってのがなにかを説明している部分がもうすでにかなり難しい。

例えば、先に示した「資質・能力の三つの柱」に紐づく「駆動する知識」が、全体として整った状態で、しかもそれがいわゆる「情報活用」に関する知識で一体となって体系化されているとする。そのような「情報活用」に関する知識が構造化され高度化した状態の総体が、「汎用的能力」としての「情報活用能力」と考えるべきであろう

(p. 66)

「「資質・能力の三つの柱」に紐づく「駆動する知識」が全体として整った状態」ってのがまずわからん。

「知識」が「全体として整った状態」っての、イメージできない。ぼくがいま、何かについて知っていることが、「全体として整った状態」かどうかはわからない。ほんで「いわゆる「情報活用」に関する知識で一体となって体系化」もわからん。「全体として整っている」のなら、「一体となって体系化されている」のって当たり前の話なのでは? そもそも「全体」なのに「いわゆる「情報活用」に関する知識」と限定されるのはなぜなのか。誰がそう判断するのかなあ、と思う。

「~されているとする」ってあるけど、この仮定、ありうるのかなあ。ほんで「駆動する知識」自体が、すでにある程度構造化され、高度化しているのに、それが「構造化され高度化した状態の総体」ってどういうものなのだろうか。「状態の総体」ってのがイメージしにくい。「全体として整った状態」の「総体」ってなんだ? むずい。

そもそも、「駆動する知識」って、「構造化されたり、身体化されたりして高度化し、適正な態度や汎用的な能力となっていつでもどこでも使いこなさるように動いている状態」の「知識・技能」のことだったんじゃなかったかと。とすれば、それすでに「汎用的な能力」になってるんじゃないのか? みたいなの、ちょっと気になるよね? 気にならない?

とりあえずつづきを読むともう少し説明されているっぽいんですね。それがこちら。

あるいは、主に「問題発見・解決」に関する知識が構造化され、「駆動する知識」として高度化した状態になって発揮されることを「問題発見・解決能力が育成された」と呼ぶことができるのである

(pp. 66-67)

やはり「知識」が「高度化」したのが「駆動する知識」なんですよね。うーむ。で、この次につづく文が、

つまり、「駆動する知識」の総体のことを「〇〇能力」と考えることができそうである。これが、「駆動する知識」と「汎用的能力」との関係である。逆に言うと、汎用的能力は、資質・能力の三つの柱で整理できるということになる

(p. 67)

要するにある知識(群)が、「構造化」されたり、「身体化」されたり、「高度化」されたりすると、それは「駆動する知識」になる。ふむ。で、その「総体」のことを「〇〇能力」と考えることができ、そう、なの、か? 総体って、どういうことなのだろう。どっからどこまでなのか。例えば「情報活用」に関する「駆動する知識」の総体ってことかな。つまりあるキーワードでまとめられるような「駆動する知識」たちが「汎用的能力」ってことか?

そもそもこの辺の文章には、「汎用的能力」って感じで「」なしで書かれているのと、「「汎用的能力」」として「」付きで書かれているのがあるのだけど、これは一緒なものなのだろうか? わからん。

とりあえず「知識・技能」について、それぞれ異なるレイヤーの「知識・技能」が、複雑に絡み合っていて、そのへんがぼくはうまく理解できていないっぽいんですよねえ。

具体と抽象の関係ではないけど、それに近い気もする。要するに相対的なのだよね、「知識」の階層は。ある視点から見ると、それは個別具体的な知識(ひとつの宣言的な知識、ひとつの手続き的な知識)なんだけど、別の視点から見れば、それは「駆動する知識」と言えるように思えるんだよなあ。そうすると、相対的に、いまよりも〈より〉「構造化」(「身体化」・「高度化」)された「知識」ってのが、「駆動する知識」ってことにならないかなあ

何かと結びついた「知識」のことを、「資質・能力」と言う、と。メタ知識みたいなものが「知識・技能」であり、「知識」およびメタ知識と未知の状況・場面との結びつきが「思考力・判断力・表現力等」であり、よりよい方向性と「知識」の「活用・発揮」の結びつきが「学びに向かう態度・人間性等」なのだ、と。で、そうなった「知識」ってのは、「駆動する知識」ってことなんだよ、と。その「駆動する知識」ってのを、グループ化して、ある語のもとにまとめると「〇〇能力」と呼ばれる「汎用的能力」になるよ、と。まあ、そういうことかなあ

「資質・能力」と「汎用的能力」の関係性はなんとなくわかった。つまり、「駆動する知識」を、どういう観点で分けるか、ってことなんだろうなあと。

「駆動する知識」は、その一個下のレイヤーの「知識」が何と結びついているか、つながっているか、という視点で考えたら「資質・能力」として整理できる。「情報活用」とか、「課題発見・解決」とか「言語運用」とかって語で、「駆動する知識」をまとめようとすると「汎用的能力」として整理できる、ってこと(だと思う)。

うーん。これ、図解してみようと思ったけど難しくてできない。やっぱおれぜんぜん理解できてないなあ。頭悪い。

さて、この後カリキュラム・マネジメントの話になって、この辺もむずいんですけど、とりあえず、カリキュラム・マネジメントするときに、「資質・能力」ベースでやんのか「汎用的能力」ベースでやんのかちゃんと考えたほうがいい感じでカリマネできると思うよ、みたいな話ですね。そもそも「資質・能力」と「汎用的能力」は、どういう観点で「駆動する知識」をまとめるかって話なので、どっちかについて整理すれば、結果的に他方のことも指導できてる、というふうになるはずですので、どっちかをベースにカリマネすれば大丈夫だぜ! っていう。

「考えるための技法」?

次の節に入ると、いきなり「「考えるための技法」についても「駆動する知識」との関係を確認しておく必要がある」(p. 72)と言われ、えっ、とかなるんですけど、「考えるための技法」というのは今まで出てきてなかった新しい概念を導入しているみたいなんですね。焦る。だから次の文に定義があります。

ここでいう「考えるための技法」とは、思考スキルのことであり、例えば、比較する、分類する、関連付けるなどの情報の処理方法のことである

(p. 72)

「考えるための技法」=「思考スキル」=「情報の処理方法」、か。ふむ。で、これは「手続き的な知識」だ、と。まあ「スキル」だからね。「技能」としての「手続き的な知識」ね。これが具体的な場面・状況と結びついて、つまり、あのスキルここでも使えそうじゃん! となって、「駆動する知識」になりうる、と。まあこれもわかる。で、次。

そうした状態になった時、私たちは「思考力が育成された」と語ることになるのであろう

(p. 72)

ううううううううううううんんんん? なんでここは「思考力」に限定されるの? 例えば「情報の処理方法」は表現の仕方でもあるんじゃないか、とか思えない? だとしたら「表現力」でもいいのでは? あるいは「情報の処理方法」を用いることで、あれをしよう、これをしようと決めることもできるのでは? 「判断力」はどこへ?

思考力を育成に(ママ)するには、ウェビングマップやピラミッドチャートなどの思考ツールが欠かせない。思考ツールは、収集した情報を処理したり、再構成したりして、関係や傾向を見出すための枠組みである。抽象的で曖昧になりやすい「考える」ことが、思考ツールによって具体化され、可視化される。そのことにより、全ての子供に「考える」ことを実現してくれることとなる

(pp. 72-73)

おおおおううううふ。んんんんんんん? 別に「思考力を育成」するために、必ずしも「思考ツールが欠かせない」とは言えない気がするんだけど。
例えばぼくは国語の先生だから、いっぱい書かせて、いっぱい添削して、いっぱい書き直して、みたいな過程のなかで、子供の「「思考力が育成された」と語ること」もあるぜ。作文って「思考ツール」なのか?

例えば作文する前段階で、題材を整理させるために、あるいはアイディアを広げるために、いわゆる「思考ツール」としてウェビングなんかをさせることはある。でもそれは、必ずしも「思考力」を育成していると言えるかは疑問だけどなあ。むしろそういうアイディアを線状的な「文章」として構築していくときに「思考力」は必要になる場合があると思うんだけどなあ。それも「思考ツール」のおかげなのだろうか。

ぼくはいろんな〈知的生産法〉みたいなの、勉強して、やってみたけど、それ今ほとんど使ってない。役に立たなかったとは言わないし、そのエッセンスっていうか、残滓みたいなのはぜったいにぼくのなかに残っている。ただ、いま、ぼくがなにかを考えるときには、今は付箋と紙とペンとPCがあればいい。これらは「思考ツール」かなあ。違うよなあ。

確かに「思考ツール」によって考えが「具体化され、可視化される」ことはあるだろうけど、だからと言って、「思考力を育成」するために「思考ツールが欠かせない」とは言えないんじゃないかなあ。「思考ツール」が役に立つこともある、くらいが穏当なのではないか。

最後の文もわかりにくい。すべての子供が「考える」ことができるようになる、みたいな感じだよね。なぜ「「考える」ことを実現してくれることとなる」みたいなわかりにくい言い回しをしないといけないのかがわからん。

次の段落の一文目は、なぜかさっきとうって変わって穏当な感じに「「深い学び」を具現するためにも、思考ツールは有効である」(p. 73)と書いてあって、いやこれくらいの言い回しでさっきもよかったんじゃないかと思ったりします。

ちなみに、この一文から始まる段落は、「深い学び」を「具現する」とか大きく言っているけど、ここまでも一応は「深い学び」について書いてたんじゃないかなあ、とか思ってまた止まった。これはどういうことなんだろうなあ。

そもそも「思考力・判断力・表現力等」は、既有知識をまったく別の場面でも使えるぜ!ってなることが「深い学び」だったような気がするんですけど、それが「思考力」だとして、で、「思考力を育成」するには「思考ツールが欠かせない」わけだよなあ。ん? ちょっとよくわからなくなってきた。

ちょっとここもわかんないのでちゃんと引用して考えてみる。

…思考ツールは有効である。なぜなら、「深い学び」は知識を相互に関連付ける構造化が求められるからである。例えば、知識や情報をウェビングマップで関連付けたり(…)して思考ツールを活用することで、知識の構造化を図ることができる。このことは、思考スキルを異なる場面で活用・発揮していることにもなり、「駆動する知識」に向かっていくことにも重なる

(p. 73)

このへん、ほんとぼくの頭悪くてわからない。

「深い学び」において、「知識を相互に関連付ける構造化が求められる」のは、「知識・技能」における「深い学び」の話じゃなかったっけ。「知識・技能」に限定してもらえば、うん、たしかに、となるんですよね。だから「思考ツールを活用することで、知識の構造化を図ることができる」ってのもわかる。

でも次の文、「このことは~」から始まる文がわからん。なぜ「思考ツールを活用」して「知識の構造化」ができることが、「思考スキルを異なる場面で活用・発揮していることにもな」るのかわからん。

「思考ツール」を用いるという「手続き的な知識」を習得したうえで、異なる場面でもその「手続き的な知識」が使えるということに気づいて使えることができる(もしくは使おうとできる)と、確かに「異なる場面で活用・発揮している」と言えそうだ。けど、ここで言われているのは、単に、ある「知識」や「情報」の整理をするときに、「思考ツール」を使って「構造化」することでしかないのに、それがなんで「異なる場面」につながっているのかわからん。

次の段落で「思考ツールでの処理や再構成」とあるので、「思考スキル」=「情報の処理方法」なのだから、「思考スキル」=「思考ツール」ってことなのだろうか。なんか違う気がする。「思考スキル」ってのは、「手続き的な知識」だ、と言われているので、「知識」と、「ツール」つまり道具はちがうよなあ。この辺の概念整理がぼくにはぜんぜんできない。

ていうか、いましれっと引用した文は、全体では、

この思考ツールでの処理や再構成の仕方については、「考えるための技法」として総合的な学習の時間の学習指導要領に明確に位置付けられた

(p. 73)

となっているけど、手元にある『小学校学習指導要領(平成29年公示)解説 総合的な学習の時間編』の付録3、4の小中の学習指導要領本文を見ても、「思考ツールでの処理や再構成の仕方」についての記述はないんですよね。あるのは、「第3 2 第2の内容の取扱いについては、次の事項に配慮するものとする」の(2)に「例えば、比較する、分類する、関連付けるなどの考えるための技法が活用されるようにすること」とあるだけで、「思考ツール」使え!みたいな話はぜんぜん書かれてなくない?

「「考えるための技法」として」という部分がだいじなのかもしれないけど、だとしてもこの「技法」をすぐさま「思考ツール」と結び付ける必要はないんじゃないか。

ちなみに学習指導要領解説には「「考えるための技法」を指導する際には、比較や分類を図や表を使って視覚的に行う、いわゆる思考ツールといったものを活用することが考えられる」(『小学校学習指導要領(平成29年公示)解説 総合的な学習の時間編』p. 51)とたしかにあるけど、これで「この思考ツールでの処理や再構成の仕方については、「考えるための技法」として総合的な学習の時間の学習指導要領に明確に位置付けられた」とするのはちょっと無理がある気もする。

まあ「思考ツール」の範囲をどこまで取るのかにもよるんだろうけども。ぼくはいまアウトラインプロセッサーで書いているし、だいたい考えるときにもアウトラインプロセッサーを使って考えることが多いけど、これも「思考ツール」っちゃあ「思考ツール」なのか? わからないなあ。むずい。

このあとの「駆動する知識」を「電気が走る」とか「スパークする」とかでイメージする、みたいな話、ぼくはぜんぜんピンとこなかったんだけど、要するに使えば使うほど「駆動する知識」は身に付く、ってことっぽい。みなさん読んでみてください。

実験心理学の話とか

このあとはOECDの調査の話とか、世界的に「探究」を重視するようなモードになってきてるよー、とか、まあそういう話ですね。ここはわかりやすい。

ただ、最後に、よく言及される心理学の実験についての話が出てきていて、なぜかそれが「脳科学の知見」とかされているのは疑問なんですけど、この実験結果をもとに、「知識をネットワーク化して構造化したり、パターン化して身体書いたりして高度化すること」の重要性を「科学的に証明されてきている」と言うんだけど、ほんとかなあ、とか思う。もとになった論文はこれよね。

http://web.mit.edu/jbelcher/www/learner/retrieval.pdf

 

(↓ここからもダウンロードできます)

https://www.researchgate.net/publication/5574966_The_Critical_Importance_of_Retrieval_for_Learning

ざっくり概要を述べると、

対象:ワシントン大学の学生

  • スワヒリ語の習熟テスト(40語)
  • 学生を4つのグループにわける

A:40語全部復習して40語全部テスト、全部やって全部テスト、を繰り返す

B:直前のテストで間違えた単語だけ復習して、40語全部テスト、を繰り返す

C:40語全部復習して、間違えた単語だけテスト、を繰り返す

D:間違えた単語だけ復習して、間違えた単語だけテスト、を繰り返す

 

結果:全部覚えるまでの回数はほぼ同じだが、1週間後に再テストをしたらA,Bグループが圧倒的に点がよかった

この実験、つぎの本でも紹介されています。

この本では、A,Bが同じくらいなんだし、つーことはBの学習法がいちばんいいよね、みたいな話(だったと思う)ですけど、ここは池谷裕二氏の引用でして、そのまとめとして、インプットよりアウトプットした方が知識の定着率は高いよ!って話としてまとめられているんですね。

インプットより、アウトプット、というのはわかるんだけど、この話が「知識をネットワーク化して構造化したり、パターン化して身体書いたりして高度化すること」とつながるとは思えないんだよなあ。もっと適切な話が、たぶん認知科学とかの研究成果にあると思うんだけどなあ、とか、もやりました。

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